終章 『花の乙女』は銀狼に抱かれ、まどろむ


 ウォルフレッドのあたたかな手のひらが、うつむくトリンティアの頬を、そっと包む。


「愛している、トリンティア」


 告げられた言葉に、思考が止まる。

 弾かれたように顔を上げた途端、開けたまなじりから、ぽろりと涙がこぼれ出た。


 まだ、夢からめていないのだろうか。こんな幻聴を聞いてしまうなんて。


 トリンティアの涙を見たウォルフレッドの端正な面輪が、切なく歪む。


「わかっている……。こんな想いを告げられても、お前には迷惑極まりないだけだと。わたしのそばにいるせいで危険な目にばかり遭い……。恐ろしくて逃げたいのだと、承知している。だが」


 ウォルフレッドの両腕が、ぎゅっとトリンティアを抱きしめる。


 放さないと言いたげに、強く、きつく。


「もう、わたしはお前以外の『花の乙女』など、考えられぬのだ。お前をそばから離すことなどできぬ。たとえお前に怯えられ、なじられようとも」


 痛みをはらんだ苦い声。

 トリンティアはろくに動かせない首を、必死に横に振る。


「ちが……っ、違います……っ」


 いったい、なんという夢に迷い込んでしまったのだろう。

 けれど、たとえ夢の中でもウォルフレッドの痛みを癒したくて。


「違いますっ。陛下のおそばに置いていただきたいのは、私のほうです! 陛下のおそばを離れたいなんて、一度も思ったことはございませんっ。 たとえ、他の『花の乙女』がはべろうとも、片隅でよいから、どうか恋――」


 口にしてはならぬ恋心まで伝えてしまいそうになり、慌てて口をつぐむ。


 だが、ウォルフレッドは聞き逃してくれなかった。


「恋? 何だ? 何を言おうとした?」


 碧い瞳が、心の奥まで見通そうとするかのように、トリンティアを覗きこむ。

 トリンティアは目をつむってぶんぶんとかぶりを振った。


「な、何でもございませんっ。どうかお忘れくださいませ。愚かな下女の戯言たわごと――、っ!?」


 不意に、甘やかな香りが強く薫る。


 かと思うと、唇を柔らかなものにふさがれていた。


 抵抗も、言葉も、すべてがける。

 ただ、唇だけが燃えるように熱い。


「トリンティア」


 ゆっくりと唇を離したウォルフレッドが、名を呼ばう。

 その声に導かれるようにまぶたを開けると、碧い瞳とぶつかった。


「わたしは、お前を愛している。お前は? お前の心を、どうかわたしに教えてくれ」


 愛しさにあふれた真っ直ぐなまなざし。

 祈るように告げられた言葉に、トリンティアの口が勝手に想いを紡ぎ出す。


「わ、私も……。私も、陛下をお慕い申しあげております……っ」


 トリンティア、と呼ばれた名は、ふたたび落とされたくちづけにまぎれてほどける。


 ウォルフレッドの舌が、唇を割って入ってくる。


 ふれれば壊れる宝物をそっと確かめるような、初めて交わした時とは雲泥の差の優しいくちづけ。


 どうすればうまく息ができるのかわからない。


 戸惑っていると、ウォルフレッドの面輪がゆっくりと離れた。


 は、と熱のこもった息を吐き出した面輪は、うっすらと上気して、女のトリンティアでも見惚れてしまうほどなまめかしい。


「やはり、お前はことさらに甘いな。……けてしまいそうになる」


 甘やかな笑みに、トリンティアの思考のほうが融けてしまう。混乱のあまり、何も考えられない。


 と、ウォルフレッドの膝の上から、そっと寝台に横たえられた。次いで乗ってきたウォルフレッドの重みに、敷布が柔らかく沈む。


「トリンティア」


 宝物のように名を紡いだウォルフレッドが、ふたたびくちづけを落とす。


 互いを確かめるように舌をなぞる柔らかな熱に、戸惑いながら応える。


 翻弄ほんろうされて、どうすればよいのかわからない。うまく息ができなくて、かすれた声であえぐと、面輪を離したウォルフレッドが、困ったように眉を寄せた。


「そのように愛らしい声で惑わせてくれるな。大切な花だというのに……。今すぐ、手折ってしまいそうになる」


 ウォルフレッドに与えられた熱に浮かされたまま、こくりと頷く。


「『花の乙女』である私が、陛下のお役に立てるのでしたら……」


 レイフェルドにのしかかられた時は、恐怖と嫌悪しかなかった。

 自分の花は、望まぬ相手に、こんなにも理不尽に踏みにじられてしまうのかと。哀しくて怖くて、逃げたくて仕方がなかった。


 レイフェルドに刻まれた恐怖が、消えたわけではない。けれど。


「陛下が望んでくださるのでしたら、私……」

 恥ずかしさに、語尾がもごもごと消えていく。


「まったく、お前は……」


 ウォルフレッドが特大の溜息をついたかと思うと、トリンティアを強く抱きしめる。


「わたしを惑わせるなと言っただろう? 何より」


 わずかに腕を緩めたウォルフレッドが、トリンティアの目を真っ直ぐ見つめる。


「お前をそばに置いたのは『花の乙女』ゆえだが、お前を愛したのは『花の乙女』だからではない。どんな時でも相手も思いやり、心を癒そうとするお前の優しさに魅せられたのだ。たとえお前が『花の乙女』でなくとも、わたしがそばにいてほしいのは、トリンティア、お前だけだ」


 ウォルフレッドの言葉に、見開いた目から、抑えきれぬ涙があふれ出す。


 どうして、ウォルフレッドはいつも、トリンティアが本当に欲しい言葉を贈ってくれるのだろう。


 役立たずと罵られ続けたトリンティアを大切にしてくれるなんて……。


 信じられぬほどの幸福に、涙が止まらない。


 ウォルフレッドが困ったように眉を下げた。


「お前は涙もろいのだな。お前の涙を見ると、どうすればわからなくなる」


「も、申し訳……」


 トリンティアの謝罪をくちづけでふさいだウォルフレッドが、指先で優しく涙をぬぐう。


「謝るな。ただ、わたしがお前が愛しくて、大切にしたいのだ」


 面輪を離したウォルフレッドが、もう一度、優しくトリンティアを抱きしめる。


「昨日はいろいろなことがありすぎて疲れただろう? もう少し休め。お前が起きるまで、ずっとそばについているから」


 額に優しいくちづけを落とされ、そっと頭を撫でられる。


「……夢では、ありませんか……?」


 もし目覚めた時に、すべてが幻と消えていたらどうしよう。

 あまりに幸せすぎて、信じられなくて、不安を隠せず見上げると、ふはっ、とウォルフレッドが苦笑した。


「夢などではない。信じられぬのなら、お前が信じてくれるまで、何度でも愛を囁こう」


 言うなり、「愛している、トリンティア」とくちづけられ、思考が沸騰ふっとうする。


「へ、陛下……っ」


 夢ではないとわかって、身体中が熱を持つ。

 はっ、と吐き出した息は、燃えているかのように熱い。


「どうだ? 信じられそうか?」


 ちゅ、ちゅ、とついばむようなくちづけを落とす合間に、ウォルフレッドが笑んだ声で問う。


「は、はい……っ。ですから、もう……っ」


 身体の奥から甘いさざなみがあふれ、息も絶え絶えになる。

 あえぎながら懇願すると、ようやくくちづけが止んだ。


「お前は甘くて……。いくらでもわたしを惑わせるな」


 呟いたウォルフレッドが、何かをこらえるように、トリンティアに額に唇を押しつける。


「愛しいトリンティア。わたしの大切な花。今はただ……安心して、ゆっくり休め」


 心をほぐすかのような優しい声。

 麝香じゃこうの甘やかな香りが、安堵を誘う。


「はい……」


 こくん、と幼子おさなごのように素直に頷き、トリンティアは愛しい人の腕の中で、幸せに包まれながら目を閉じた。



                                おわり


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