72 しばらく誰もわたしに話しかけるな!


「ゼンクール公爵は捕らえ、『天哮の儀』も終わった! もういい加減よいだろう!? わたしを公務から解放しろ! しばらく誰もわたしに話しかけるな!」


 苛立ちを隠さず怒鳴るウォルフレッドの声に、トリンティアは目を覚ました。


 反射的に身を起こし、自分がウォルフレッドの私室の寝台に寝かされていたのだと知る。

 絹のドレスはいつの間にか清潔な厚手の夜着に着替えさせられていた。


 状況が掴めないでいるうちに、かちゃりと私室の扉が開く。


 入ってきたのは、皇帝にふさわしい立派な衣装をまとったウォルフレッドだ。


 その姿を見た途端、自分がしでかしたとんでもない行為の数々を思い出す。


 銀狼と化したウォルフレッドにまたがるなんて不敬をし、それを大勢の貴族達に見られた上に、『天哮の儀』の途中で気を失って――。


「トリンティ――」

「も、申し訳ございませんっ!」


 とにかく謝罪せねばと、掛布をはねのけ、寝台から下りようとした途端、敷布に足を取られた。


「ひゃっ」


 ずるりと寝台から落ちそうになったところを、駆け寄ったウォルフレッドに、すんでのところで抱きとめられる。


 かぎ慣れた麝香じゃこうの甘い香りがする。着替えた時に身を清めたのだろうか。血の臭いはもうしない。


「も、申し訳ございません……っ」


 失敗続きの情けなさに泣きそうになりながら詫び、身を離そうとすると、逆にぎゅっと抱きしめられた。甘やかな香りが、さらに強く揺蕩たゆたう。


「何を謝ることがある? 身体は何事もないか?」


「は、はいっ、陛下が抱きとめてくださいましたので……」


 答えると、端正が面輪がしかめられた。その表情に、ウォルフレッドの問いが別の意味も含んでいたのだと悟る。


「あ、あのっ、大丈夫です。レイフェルド殿下に捕まっていた時も、何、も……」


 レイフェルドに力づくでのしかかられた時の恐怖がよみがえり、勝手に身体が震え出す。


 トリンティアが腹違いの妹と知ってなお、喜悦にわらいながら手籠てごめにしようとした狂気に満ちた瞳。


 思い出すだけで、自分の身体の中に目に見えぬ毒が広がっていくようで、恐怖のあまり、叫びだしたくなる。


 固く唇を噛んで、こぼれ出しそうな悲鳴をこらえていると、不意にウォルフレッドに横抱きに抱き上げられた。


 トリンティアを抱いたまま、ウォルフレッドが寝台に腰かけたかと思うと。


「すまなかった……っ!」


 ぎゅっと抱きしめられ、詫びられる。


「お前を守ると誓ったのに、何度も破った挙句、あのように恐ろしい目に遭わせてしまうとは……っ。いったい、お前にどうやって詫びればよいのか……っ」


 絞り出すようなウォルフレッドの声は、トリンティアの胸まで痛くなるほど、低く、苦い。


 トリンティアは驚いてぶんぶんとかぶりを振る。あまりの激しさに、ウォルフレッドの腕がわずかに緩んだ。


「ど、どうして陛下が謝られるのですかっ!? お詫び申し上げなくてはならないのは、私のほうですのに! 私のせいで、陛下にとんでもないご迷惑を……っ」


 大切な『天哮の儀』の直前だったというのに。

 レイフェルドを討つためとはいえ、トリンティアを助けてくれた。


 それだけでもう、トリンティアの想いは十分に報われた。トリンティアなどのことよりも。


「あのっ、ソシア様とイレーヌ様はご無事なのですか!?」


 問うと、ウォルフレッドが虚を突かれた顔をした。


「ソシアとイレーヌ? 二人とも何事もないが……。なぜ、そんなことを聞く?」


「だって……。私を『天哮の儀』のために連れ帰ったのは、お二人に何かあったからでございましょう? ソシア様にまで何かあったのでしたら、私……っ」


 初めて出会えた、亡き母にゆかりのある人なのに。

 『天哮の儀』を妨害するために、ソシアの身までおびやかされていたらと思うと、心配でたまらない。


「大丈夫だ。ソシア達には何も起こっておらぬ。安心しろ」


 なだめるように、ウォルフレッドの大きな手のひらが、優しくトリンティアの背をすべる。


「そうなのですね……。よかった……っ」

 ほっ、と大きく息をつく。


「わたしがお前に無理をさせてまで連れ帰ったのは……」


 言いかけたウォルフレッドが、途中で、ふいと顔を背ける。


「すまぬ……。お前の意に添わぬことは承知しているのだが……」


 歯切れの悪い、苦い声。


 ああ、とトリンティアは絶望と共に悟る。


 ついに、この日が来たのだ。

 お前など不要だと――ウォルフレッドに、別れを言い渡される日が。


 泣かずに受け止めなくては、と唇を噛みしめる。

 せめて最後くらい、ウォルフレッドに迷惑をかけたくない。


 今すぐ両耳をふさいでウォルフレッドの腕の中から逃げ出したい衝動をこらえ、トリンティアはぎゅっと目をつむってうつむく。

 ウォルフレッドの顔を見る勇気は、さすがになかった。


 震えながら待つトリンティアの耳に、ウォルフレッドの嘆息が届く。


 意を決したように、ウォルフレッドが小さく息を吸い込み。


「わたしがお前を無理やり連れ帰ったのは、お前に祝福を与えられたかったからだ。わたしがそばにいてほしいと願う『花の乙女』は……。お前しか、おらぬ」

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