71 声を聞くだけで、涙がこぼれそうになる


 まるで、紙のように馬車の壁が鋭い爪で切り裂かれる。


 吹きこんだ夜風に揺らめいたのは、月の光を編んだかのようにきらめく白銀の毛並み――。


「レイフェルド!? 貴様……っ!」


 トリンティアに覆いかぶさるレイフェルドを見た銀狼が、激昂のうなりを上げる。


 ウォルフレッドが動くより早く、自身もまた銀狼と化したレイフェルドが、ウォルフレッドに飛びかかる。


「ウォルフレッド! まさか、お前からわたしの元へ来るとはな! 今ここで、どちらがこの国の皇帝にふさわしいか、明らかにしてやろう!」


 レイフェルドの爪を、ウォルフレッドが軽やかにかわす。かと思うと、噛みつこうとした牙を、今度はレイフェルドがあざやかに避けた。


 幻でも、見ているのだろうか。


 夜明けには王都で『天哮の儀』を執り行わなければならないウォルフレッドが、今、ここにいるなんて。


 まるで、重さなど感じさせぬように、目にも止まらぬ速さで銀狼達の死闘が繰り広げられる。


 ウォルフレッドを追って駆けてきた騎士達のときの声が聞こえる。騎士達を鼓舞するゲルヴィスの声も。


 だが、トリンティアは魅入られたようにウォルフレッドから目を離せなかった。


 まさか、ウォルフレッドが自ら来てくれただなんて。


 皇位争いの火種となるレイフェルドを放ってはおけなかったからだとわかっている。それでも、安堵と嬉しさに涙があふれてくる。


 にじむ視界に、二匹の銀狼が闘う姿が見える。恐怖も忘れ、トリンティアは裂けた馬車の壁の間から、銀狼達の死闘を魅入られたように見つめた。


 素早く位置を入れ替えながら、二匹の銀狼が互いに爪や牙を繰り出し合う。

 心臓を凍らせるような低い唸り声が夜気を切り裂く。


 人外の力を振るう二匹の銀狼の戦いに、周りの騎士達は、一人として割って入られない。

 率いてきた騎士達を指揮しながら、レイフェルド側の騎士達を次々に斬り伏せていくゲルヴィスでさえも。


 いかな弓の名手とて、稲妻のように目まぐるしく離れては飛びかかるウォルフレッド達に、正確に矢を射れまい。


 何度、応酬し合っただろう。


 ウォルフレッドの巨体がぐっと沈む。

 地を蹴り、レイフェルドの死角となる右側から喉元目がけて飛びかかる。


 レイフェルドが身をひるがえそうとしたが、間に合わない。


 毛皮に覆われた喉元に、ウォルフレッドの牙が突き立つ。


 頸椎けいついを噛み砕かれる異音が、夜明け間際の森に響いた。


 ウォルフレッドが放した白銀の巨体が、どうっ、と地に倒れ伏す。

 地響きとともにくずおれたレイフェルドは、ぴくりとも動かない。それだけで、レイフェルド側の騎士達を浮足立たせるには十分だった。


「反逆者レイフェルドは倒れた! まだやる気か!? 今なら大人しく投降すりゃあ、命までは取らねえぞ!?」


 追い打ちとばかりにゲルヴィスの声が響く。


 逃げようとする者、諦めて剣を下ろす者、それを捕らえようとする者――。


 周りが慌ただしく動く中、口元を朱に濡らしたウォルフレッドが、銀狼の姿のまま、馬車へ駆け寄ってくる。


「トリンティア! 無事か!?」


「は、はいっ」


 銀狼に変じているからだろう。いつもよりくぐもった声は、だが確かにウォルフレッドのもので。


 その声を聞くだけで、胸がいっぱいで涙がこぼれそうになる。


 と、ほっ、と安堵したように息をついたウォルフレッドが、突如、地に伏せた。


「わたしの背に乗れ」


「え?」

 予想だにしない言葉に、咄嗟とっさに反応できない。


「『天哮の儀』まで間がない。わたしにまたがれ」


 そうだ。夜明けまでもう間がない。

 ウォルフレッドがこんなところにいていいはずがないのに。


「急げ!」


 ウォルフレッドの声に、無意識に身体が動く。ウォルフレッドの言葉に従わないなんて選択肢はない。


「し、失礼します……」


 後で不敬罪で罰せられるのではないかと思いながら、ウォルフレッドの背にまたがる。


 少し硬い長い毛並みの下に、引き締まった筋肉を感じる大きな背中。


「痛くなどないから、しっかり掴んで身を伏せておけ。間違っても放すなよ」


「は、はい……っ」


 言われた通り、前屈みに身を伏せる。血や汗の臭いに混じって、かすかに麝香じゃこうの甘い香りが鼻をくすぐる。


 恐ろしい銀狼の姿。だが、間違いなくウォルフレッドなのだと、胸がきゅうっと締めつけられる。


 ぎゅっと長い毛を掴むと、ウォルフレッドが走り出した。


 始めはゆっくりとだったが、次第に速度が上がっていく。


 風がドレスや髪をなぶる。

 景色が飛ぶように過ぎていく。


 ウォルフレッド達が戦っていたのは、林の中の街道だったらしい。だが、すぐに林が途切れ、目の前に王都の街並みが迫ってくる。


 東の空は白々と明るくなってきている。夜明けまでもう間がない。


 トリンティアを置いていけば、間違いなくもっと速く走れるだろうに。


「あ、あの……っ」

「話すな。舌を噛むぞ」


 口を開いた途端、注意が飛んできた。


 トリンティアが落ちないように加減して走ってくれているとわかるものの、疾走する銀狼の背は、気を抜けば振り落とされてしまいそうだ。硬く長い毛並みを握る手には、自分でも信じられないほどの力がこもっている。


 わざわざトリンティアを連れて行くということは、ソシアやイレーヌの身にも、何かあったのだろうか。


 もしソシアにも危険が迫っていたらと思うと、心配で胸が痛くなる。


 トリンティアが不安に震えている間にも、ウォルフレッドはぐんぐん進んでゆく。


 耳に届くのは、ウォルフレッドの爪が石畳を蹴る音と、耳元でうなる風の音だけだ。


 夜明け前の王都の道を行く人は少ない。が、無人というわけではない。


 大通りを駆け抜ける銀狼を目にした人々が、悲鳴を上げ、目を見開いて道の両側へ逃げてゆく。


 だが、ウォルフレッドは目もくれず、無人の野を進むがごとく駆け抜ける。トリンティアはただ、振り落とされぬよう、必死にしがみつくことしかできない。


 ぐんぐんと王城が近づいてくる。


 前に見た半円形の建物では、今ごろ貴族達が大勢集まり、『天哮の儀』の始まりを今か今かと待っていることだろう。

 が、儀式の主役であるウォルフレッドはここにいる。


 王城の外壁が迫る。

 迎え入れるかのように大きく開かれた通用門の一つに、ウォルフレッドが飛び込んだ。


 トリンティアには、どこなのかわからぬ王城の庭を、ウォルフレッドは迷いなく駆けてゆく。


 ざわめく大勢の人の気配がしたかと思うと。


 角を曲がった途端、半円形の建物が目の前に広がる。

 広場を埋め尽くしているのは、数多あまたの貴族達だ。


 端のほうにいた貴族の何人かが、突然現れた銀狼にぎょっと目を見開く。


 広場にいる者達全員の視線を集めながら、トリンティアを背に乗せたウォルフレッドが、弧を描く階段を駆け上がる。


 最上段のバルコニーの中央についたところで、ウォルフレッドが初めて足を止めた。


「大丈夫か?」

「は、はい……」


 答えながら、早く降りなければと焦る。


 皇帝にまたがっているところを、大勢の貴族達に見られるなんて、後でセレウスにどれほど叱責されるだろう。


 だが、焦る心とは裏腹に、固く握りしめていた手は、その形で凍りついてしまったかのように、なかなかほどけない。


 苦労して指を開き、滑り落ちるようにウォルフレッドの隣に降り立つと、柔らかな声で「祝福を」と促された。


「ええっ!? あ、あの……っ!?」


 急にそんなことを言われても、何をどうすればよいのかわからない。


 そもそも、大切な『天哮の儀』なのに、トリンティアごときがウォルフレッドを祝福していいものなのだろうか。


「何でも、お前の好きでよい。早く」


 急かされ、混乱の極みに達する。


「トリンティア」


 甘く響く、優しい声。

 考えるより早く、身体が動いていた。


 爪先立ちで伸び上がり、自分の頭ほどの高さにある銀狼の首に、両腕でぎゅっと抱きつく。


 決して伝えられない恋心を、抱きしめるように。


 長い毛並みが肌をくすぐり、麝香じゃこうの甘い香りが揺蕩たゆたう。


 もう二度とふれられないだろう白銀の毛並みに顔をうずめた途端。

 毛皮の下の筋肉が震えた。


 ウォルフレッドから、高く伸びやかな遠吠えが放たれる。


 驚いて思わず腕を放したトリンティアの目を射ったのは。


 東の地平から顔を出した太陽が放つ、清冽せいれつ曙光しょこうだ。


 銀の毛並みが朝日を浴びて、まるで内側から光を放つかのようにきらめく。


 ざっ、と、強風に麦の穂が打ち伏すように、並み居る貴族達が片膝をつき、こうべを垂れる。


 その中を。


 どこまでも伸びやかに、ウォルフレッドの遠吠えが響き渡る。


 新しい治世の始まりを言祝ことほぐように。

 あかつきに染まる天の彼方まで、届けとばかりに。


 胸に押し寄せる感情に、涙があふれる。


 深い安堵に張りつめていた緊張の糸の糸が切れ――。


 トリンティアは、くずおれるように気を失った。

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