70 不可視の毒が、染み込んでくる


 どんっ、背中を突かれ、馬車に押し込められたトリンティアは、つんのめって前のめりに床に倒れた。


 後ろ手に縛られていた縄は、乗る直前にほどかれていたものの、きつく縛られていたせいで、腕がしびれたようになっている。


 だが、トリンティアがぶつかったのは、固い床ではなく、あたたかく柔らかなものだった。


 驚いて身を起こしたトリンティアの目に飛び込んだのは。


 絹の薄物をまとい、ぐったりと床に横たわる若い女性だった。


 気を失っているのかと思ったが、違う。

 目は開いているのに、表情もまなざしもうつろで、心がここにないのが一目で知れた。


 だが、それよりもトリンティアの心に恐怖を呼び起こしたのは。


 手足に幾つも浮かぶ内出血の跡だった。

 それだけではない。まれたのだろうか。内出血の他に、いくつもの歯形が残っている。


 白い肌に刻まれた幾つもの赤黒い跡は、おぞましい毒花のようにも見えた。


 静かに上下する胸が、彼女がまだこの世に繋ぎとめられているのを教えてくれている。けれど。


 トリンティアは洩れそうになった悲鳴を、唇を噛みしめてこらえる。


 震えが止まらない。

 サディウム伯爵に長年、虐げられてきたトリンティアでも、ここまで酷い目に遭わされたことはない。


 いったい、誰が彼女をこんな目に――。


 怯えるトリンティアをよそに、馬車が動き出す。


 同時に、ぎ、とかすかに床がきしむ音に、トリンティアはびくりと肩を跳ね上げて、音を発した人物を見上げた。


 揺れる馬車の中で立ち上がり、トリンティアを見下ろしていたのは。


「レイフェルド、殿下……」

 紡いだ声が恐怖に震え、かすれる。


「なるほど、そのドレス……。確かに、『花の乙女』のものだな」


 しどけなく絹の服をまとったレイフェルドが、瞳に淀んだ情動を浮かべて呟く。その唇が喜悦に吊り上がった。かと思うと。


「っ!」


 突然、髪を鷲掴わしづかみにされ、無理やり引き起こされる。ぶちぶちと、耳元で髪が抜ける音がした。


 身を起こしたトリンティアの首を、レイフェルドが片手で無造作に掴む。


 首を絞められる恐怖に反射的に暴れるが、レイフェルドの手はびくともしない。銀狼の血の力だろう。片手だけでトリンティアを軽々と持ち上げる。


 息ができない。苦しい。

 死の恐怖に頭が真っ白に染め上げられる。


 無我夢中でレイフェルドの手に爪を立て、足をばたつかせて暴れても、首を掴んだ手は小動こゆるぎもしない。


 と、不意にレイフェルドが手を放す。


 どさりと床に落ちたトリンティアは、きこみながら空気を求めてあえいだ。


 心臓が、身体から飛び出しそうなほど暴れまわっている。

 がんがんと頭が鳴り、ろくに聞こえない耳に流れ込んできたのは。


 くつくつと喉を鳴らすレイフェルドの喜悦に満ちた声だった。


「お前がウォルフレッドがいつくしんでいるという『花の乙女』か! こいつはいい。お前を痛めつけて、ぼろぼろにして目の前に引きずり出してやったら、あいつはどんな顔をするんだろうな?」


 逃げなければ。


 咄嗟とっさに思う。

 このままここにいては、どんな目に遭わされるか。


 隣で横たわる女性に目をやる。こんな騒ぎの中でも、虚ろな目は何も映さぬままだ。


 トリンティアも、こんな風にされてしまうのだろうか。


 走る馬車だろうが関係ない。恐怖に強張る身体を必死に動かして、扉に取りすがるより早く。


 レイフェルドの長身がのしかかってくる。


「いや……っ」


 必死に振り払った手がレイフェルドの顔をかすめた。前髪で隠されていた顔の右半分があらわになる。


 そこには、整った面輪の右半分に及ぶ、ひどい傷跡があった。

 ひきつれた傷は肉が盛り上がり、白く濁った目は視力が失われているだろう。


 息を飲んだトリンティアに、レイフェルドが口元を歪める。


「この顔が恐ろしいか?」


 トリンティアを押し倒し、馬乗りになったレイフェルドが、左手でそっとトリンティアの頬を撫でる。


「これはウォルフレッドと戦った時の傷だ。この愛らしい顔にも、同じ傷をつけてやろうか? 皮を裂き、目をえぐり出し……」


 泥のように冷たく淀んだ声で、レイフェルドが楽しげに喉を鳴らす。


 頬を辿たどる指先は優しいのに……。

 まるで、ふれられたとろこから不可視の毒が肌に染み込んでくるような気がする。


 身体の震えが止まらない。

 あらがいたいのに、毒に侵されたように身体が動かない。


 底光りする片目に浮かぶのは、ウォルフレッドへの言い知れぬ憎悪だ。


 と、不意にレイフェルドが覆いかぶさってくる。


「いや……っ!」


 呪縛が解けたように、ようやく声が出る。


 下りてきた唇を、顔を背けて必死にかわす。

 両手を突っ張ってレイフェルドを押しのけようとするが、大きな身体はびくともしない。


「お、おやめくださいっ! お許しくださいっ! どうか……っ」


 必死に声を張り上げる。


 ソシアから聞いた話が真実なのだとしたら、トリンティアとレイフェルドは。


「わ、私の母は『花の乙女』だったのです! 前皇帝陛下にお仕えする中で、私を身籠みごもり……。ですから……っ」


 トリンティアの必死の叫びが通じたのか、レイフェルドが動きを止める。

 ほっ、と息をついたのも束の間。


「それが、どうしたのだ?」


 レイフェルドの言葉に、トリンティアは耳を疑う。


 愕然がくぜんと見上げたトリンティアの視界に映ったのは、楽しくて仕方がないと言いたげなレイフェルドの面輪――。


 狂気をはらんだ笑みに、ぞわりと全身が泡立つ。


「異母妹とはな。気に入った」


 何を、言っているのだろうか。


 不意に、レイフェルドの右手が、首に伸びてくる。

 先ほどの恐怖を思い出し、トリンティアは思わず掠れた悲鳴を上げた。


 ウォルフレッドと同じ色でありながら、まったく異なるまなざしを宿した片目が、喜悦に底光りする。


「良いぞ、いい反応だ。人形のようではつまらんからな」


 レイフェルドの言葉に、トリンティアは唇を噛みしめる。


 サディウム伯爵もそうだった。トリンティアが泣けば泣くほど折檻が苛烈になって……。

 だから、身を縮め、心を閉ざして反応せぬようにしなければならないのに。


「っ!」


 ドレスの裾をめくりあげられ、無遠慮に肌を撫でられるだけで、恐怖と嫌悪に身体が震える。


 いっそのこと、恐怖で身体が石になってしまえばいいのに、身体の震えが止まらない。


「気に入ったぞ、娘」

 レイフェルドがくつりと喉を鳴らす。


「禁断の蜜ほど、甘いもの。殺したウォルフレッドの首の前で、お前が孕むまで可愛がってやろう」


 おぞましい狂気を宿して、レイフェルドがわらう。


「はははっ、愉快極まりないな。寵愛していた『花の乙女』を寝取られて怒るウォルフレッドと、冥府で悔しがる親父の顔を想像するだけでたぎってくる。今頃、冥府でどれほど歯噛はがみしているだろうな? 実の娘を自分の手で孕ませたかったと……。くそっ、同じ穴のむじなの分際で……っ」


 哄笑したレイフェルドの声が、不意に低く、くらくなる。


 トリンティアは思い出す。

 前皇帝は、『花の乙女』との同衾中どうきんちゅうに急死したのだと。


 だが、まさか――。


 トリンティアの心を読んだように、レイフェルドの目が嗜虐的しぎゃくてきな光を帯びる。


「ああ、そうだ。前皇帝は……。わたし達の父親は、わたしがこの手で殺してやった。当然の報いだ。誰よりも己自身が『花の乙女』に溺れていたというのに、わたしには身を慎め、でなければ廃嫡はいちゃくするなどと……。殺されて当然だろう? ……ああ、だが」


 うっとりと、レイフェルドが目を細める。

 夢見るかのように。いっそ無邪気な表情で。


「親父を殺すのは楽しくもなんともなかったが、『花の乙女』をやるのは甘美だったな。必死で命乞いする娘をなぶり、柔肌に牙を立て……」


 舌なめずりをしたレイフェルドが、不意に顔を寄せ、トリンティアの頬をめ上げる。


「ひ……っ」


 これから、どんな目に遭わされるのか。


 絶望に、涙があふれる。


 心に思い描くのは、たった一人の愛しい人。

 あの方に捧げることも叶わぬまま、トリンティアの花はここで無残に踏みにじられるのか。


「嫌っ! いや……っ!」


 突然、火がついたように暴れるトリンティアの必死の抵抗を、レイフェルドがたやすく押さえ込む。


「いいぞ。せいぜい、いい声で鳴いてくれよ?」


 狂気に歪んだ笑みを浮かべたレイフェルドが、トリンティアのドレスの胸元に手をかける。


 常人ではあり得ぬ力に、絹の布地が、びっ、と嫌な音を立て――、


「トリンティア!」


 涙を流しながら固く目を閉じたトリンティアの耳に、何よりも聞きたい人の叫びが飛び込んで来た。



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