69 度し難い愚か者だな、わたしは


「陛下っ!? どこに行く気っすか!?」

「放せっ!」


 一睡もしないまま迎えた深夜。


 火事の直前に、別邸から大慌てて出ていった馬車がある。その馬車は、王都郊外のゼンクール公爵にゆかりのある屋敷へ入っていったが、その屋敷では、武装に身を固めた騎士達が今にも王都へ向かって進軍しようとしつつある……。


 一晩中、トリンティアの捜索に当たらせていた騎士達の一人から、ようやく求めていた報告がもたらされた瞬間、ウォルフレッドは椅子を蹴立てて立ち上がった。


 執務室を走り出ようとした途端、ゲルヴィスに肩を掴んで引き止められる。


「トリンティアを助けに行くに決まっているだろう!?」


 乱暴にゲルヴィスの手を払いのける。


 ばしんっ、と鞭打むちうつような音が響く。加減を忘れた力に痛みを感じたのか、ゲルヴィスの傷のある顔がわずかに歪んだ。だが、ゲルヴィスも退かない。


「夜明けまで、もう二刻もないんすよ!? 『天哮の儀』はどうするつもりですか!?」


「ゲルヴィスの言う通りです」


 扉を押し開け、執務室へ入ってきたのはセレウスだ。その後ろには、銀糸で細やかな刺繍ししゅうが施された豪奢ごうしゃな白い絹のドレスをまとったソシアが控えている。


「ソシア殿の支度はすでに整っております。『天哮の儀』はソシア殿とり行ってください。すでに騎士達を向かわせる手はずは整えております。決してゼンクール公爵の軍を王都に入れはしません。トリンティアの救出も、騎士達にお任せを」


「できるわけがなかろうっ!?」


 えるような怒声に、ソシアがびくりと身体を震わせる。

 だが、セレウスは憎らしいほど泰然としていた。


「なぜでございますか?」


 理解できぬと言いたげに、淡々とセレウスが問う。


「『天哮の儀』に必要なのは『花の乙女』であって、トリンティアではありません。『天哮の儀』の重要さは、陛下が一番ご存じでしょう?」


 今さら、セレウスに指摘されずとも知っている。


 だからこそ、この日のために特別にあつらえた皇帝にふさわしい豪奢ごうしゃな衣装を纏い、トリンティアを探しに行きたい心を必死になだめて、王城に留まっているのだ。


 『天哮の儀』さえなかったら、とうに王城を飛び出し、トリンティア捜索の陣頭指揮を執っている。


「当然だ。だが、トリンティアを放っておくことはできぬ!」


 ゼンクール公爵がどんな意図でトリンティアをさらったのかは、わからない。


 だが、トリンティアは今頃、どれほど恐ろしい思いをしているだろう。


 愛らしい面輪が恐怖に強張っているかもしれないと思っただけで狂暴が感情が湧き上がり、胸が張り裂けそうになる。


 殺すのではなく、わざわざ攫ったということは、すぐにはトリンティアを害するつもりはないということだ。


 だが、もし髪一筋の傷でもつけてみろ。容赦なくこの手でほふってやる、と固く心に誓う。


「どけ!」


 力づくでも執務室を出ていこうとするウォルフレッドの前に、セレウスが立ちふさがる。


「なりません! トリンティアを見捨てるつもりはございません。ご不安ならば、ゲルヴィスも遣わしましょう。ですが、陛下を行かせるわけにはまいりません!」


 セレウスの薄青い瞳が、射抜くようにウォルフレッドを見据える。


「まもなく、『天哮の儀』に参列するために貴族達がやって参ります。その貴族達に、城から出ていく陛下のお姿を見せるおつもりですかっ!?」


 セレウスの言うことは正しい。


 己の治世を盤石ばんじゃくにするこの日のために、ずっと苦痛に耐えて、『花の乙女』を探し求めてきた。

 今になってそれを投げ出すなど、ありえない。


 自分でも愚かだとわかっている。けれど。


 心が、トリンティアを求めてやまない。

 今すぐ華奢きゃしゃな身体を腕の中におさめ、怖いことは何もないのだと安心させてやりたい。


 約束を、したのだ。


 あのいつも怯えた顔をしている、そのくせ人の痛みに敏感な少女と。

 必ず、わたしが守ると。


 「わたしを約束一つ守れぬ皇帝にする気か?」と問おうとして。


 激烈な頭痛に襲われ、思わずうめく。


 トリンティアの捜索に気をとられるあまり、『乙女の涙』を飲むことすら忘れてしまっていた。


「陛下、こちらを」


 心得たようにさっと前へ出たソシアが、懐から取り出した『乙女の涙』を手のひらにのせて差し出す。


 ウォルフレッドは無言で丸薬を掴むと、乱暴に口の中に放り込んだ。


 一日飲んでもまだ慣れぬ丸薬の味に顔をしかめると、「どうかなさいましたか?」と、ソシアが不安そうに眉を寄せた。


「いや、『乙女の涙』の味に慣れぬだけだ」


 早口に言い捨て、セレウスを無理やり押しのけようとすると、ソシアが鋭く息を飲んだ。


「昔、聞いたことがございます……。銀狼の血を引く方が、この者と思い定めた『花の乙女』は、名の通り、蜜のように甘いのだと……。ですが、まさか本当に……!?」


 とすり、とソシアの言葉が矢のようにウォルフレッドの胸に突き立つ。


「そんな話があるのかよ?」


 いぶかしげに尋ねたゲルヴィスに、ソシアが頷き、躊躇ためらいがちに口を開く。


「はい……。これは秘事ですが……。『乙女の涙』の材料の一つは、私達『花の乙女』の血や涙ですから」


 ゲルヴィスとソシアのやりとりも、耳に入らない。


 まるで、ずっと目の前にあったのに、見えていなかったものに初めて気づかされたように。


 ウォルフレッドの心を覆っていたヴェールが、前ぶれもなくがれてゆく。



 最初はただ、苦痛を癒すだけの存在だった。


 父とともにミレイユが殺され、彼女が遺してくれた『乙女の涙』も皇位争いの中で尽き――。


 苦痛などに負けて皇位を手放してなるものかと、手を尽くして『花の乙女』を探していた。


 そんな中で、偶然にも手に入れた『花の乙女』。


 決して逃してなるものかと……。

 逃さぬためなら、恐怖だろうと金だろうと使えるものは使い、たとえ拘束してでも、そばに置いておかねばと思ったのに。


 恐怖に震えるせっぽちの少女は、逃げるという選択肢すら思い浮かばぬようで。


 『冷酷皇帝』に怯えて、ただただ身を固くして震えるトリンティアを見ているうちに、このままではいけないと。唯一の『花の乙女』として、もう少し務めを果たしてもらわねばと思っていただけ、だったはずなのに。


 怯えながらも、ウォルフレッドを気遣う優しさに癒されて。


 けなげに務めを果たそうとする姿がいじらしくて。


 素直に感情を表すさまが新鮮で、愛らしい笑顔を見るだけで心が弾んで――。


「度しがたい愚か者だな、わたしは」


 何があろうとトリンティアを守ると誓ったのは、彼女が『花の乙女』だからというだけでなく――。


「陛下?」


 この上なく苦い呟きに、セレウスがいぶかしげに眉をひそめる。

 ウォルフレッドは条件付きの忠臣を見つめると、唇を歪めた。


「セレウス。かつて約束したな? もしわたしが皇帝にふさわしくないと、お前が断じた時は、遠慮なく引きずり降ろすがいい、と。どうやら、その時が来たようだ」


「いったい何をおしゃって……っ!? まもなく『天哮の儀』が始まると――」


「トリンティアを、助けにゆく」


 セレウスの言葉を断ち切るように告げる。


「『天哮の儀』をトリンティア以外と行う気はない。わたしが祝福を受けたい『花の乙女』は――。トリンティア、ただ一人だけだ」


「陛下っ!? 正気でございますか!?」


 セレウスが泡を食って詰め寄る。ふだんの冷静さをかなぐり捨てた様子に、こいつでもこんな顔をすることがあるのかと、そんな場合ではないのに、妙に愉快な気持ちになる。


「どうか、トリンティアのことはゲルヴィスにお任せください! ゲルヴィスに任せれば陛下も安心でございましょう!? 必要でしたら、わたくしも出陣いたします! ゼンクール公爵の騎士達は決して王都に入れませぬゆえ! 『天哮の儀』を目前に、陛下御自らが行かれる必要は――」


「わたしが、行きたいのだ」


 強い声音で、セレウスを遮る。セレウスが愕然がくぜんと目を見開き、ウォルフレッドの両肩を掴む。


「陛下! どうか正気にお戻りください! 銀狼国の未来という大義の前に、いっときの感情で動くなど――」


「では問うが」


 ウォルフレッドはセレウスの目をひたと見据える。


「サディウム伯爵を糾弾した時、心の中に復讐の喜びが欠片もなかったと――。感情に動かされなかったと、お前は誓えるか?」


「っ!」


 息を飲んだセレウスの両手を肩から外し、ウォルフレッドは今度こそ足を止めずに扉へと進む。


「ゲルヴィス! 騎士達を率いて郊外へ迎え! ゼンクール公爵の手の者を、王都に入れる前になんとしても食い止めよ! わたしは先に出る! 後から追ってこい!」


「はっ!」


 喜色を帯びた声で応じるゲルヴィスの前を通り過ぎ、扉を押し開けながら振り返りもせずセレウスに告げる。


「お前のこれまでの忠勤に感謝する。……が、すまぬな。お前の理想とする皇帝は、もう演じられぬようだ。わたしを追い落したければ、好きにしろ。とがめんぞ?」


 ゲルヴィスを従え、足早に廊下へ出ると、数歩も行かぬうちに背後で乱暴に扉が開いた。


「一方的に勝手なことをおっしゃらないでください!」


 追いかけてきたのは、いつになく荒れたセレウスの声だ。


「陛下以上の主君が、そう簡単に見つかるとお思いですか!? わたくしが陛下を簡単に見限ると!?」


 一息に告げたセレウスが、すぅ、と大きく息を継ぐ。


「『天哮の儀』の準備を万端に整えてお待ち申し上げておりますから。刻限は夜明け前です。それまでに、必ずトリンティアとお戻りください。……わたくしも、まだ彼女に詫びていないのですから」


 聞こえるか聞こえないかの低い声で、最後の一言を呟いたセレウスが、いつもの声に戻ってゲルヴィスに告げる。


「ゲルヴィス! 陛下を頼みましたよ!」

「おうっ、任せとけ!」


 二人の声を背後に聞きながら、ウォルフレッドは今度こそ脇目わきめもふらずに駆け出した。

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