68 狂気に満ちた手負いの獣


「この程度の娘が、『銀狼国の薔薇』のはずがないだろう!」


 ヴェールが乱暴にはぎとられる。次いで響いた激しい怒声と、誰かが蹴り倒される重い音に、トリンティアの意識は完全に覚醒した。


 意識を失う寸前の恐怖を思い出し、咄嗟とっさに逃げようとする。が、両手が動かせない。


 そこでようやく、後ろ手に縛られ、床に転がされているのだと気がついた。


 痛みに呻く声に視線を向ければ、床にへたり込んでいるのはサディウム伯爵の屋敷からトリンティアのさらった男達の若いほうだ。もう一人の壮年の男は、床に額をこすりつけるようにして、震えながら平伏している。


 そして、蹴り倒した男を忌々しげに睨みつけているのは。


「レイフェルド殿下……!?」


 かすれた声が、震える唇からこぼれ出る。


 長く伸ばした前髪で、顔の右半分が隠れているが、エリティーゼの婚約者として、何度かサディウム領に来ていた姿を見たことがあるので、間違いない。


 皇子らしい華やかな雰囲気は失せ、険しくすさんだ気配をまとっているが、確かに前皇帝の第四皇子であり、次期皇帝との呼び声も高かったレイフェルドだ。だが。


 レイフェルドは、皇位争いの中、ウォルフレッドとの戦闘中に崖から落ちて行方不明となっていたはずだ。


 まさか、生きているとは思いもよらなかった。


「くそっ! よりによってウォルフレッドごときに鞍替くらがえしようとしたあばずれに、わたし自らが身の程を叩き込んでやろうとしたものを……っ! 今からでも、もう一度さらってこいっ!」


 吠えるようなレイフェルドの怒声に、トリンティアは我に返る。


 レイフェルドの言葉から推測するに、どうやらエリティーゼと間違われて攫われたらしい。


 かつて自分の婚約者だったエリティーゼが、ウォルフレッドに嫁ぐのが、気位の高いレイフェルドには我慢がならないのだろうか。


 心に浮かんだ疑問を、トリンティアはすぐに否定する。


 平伏する男達を罵倒し、容赦なく蹴りつけるレイフェルドの姿に、震えが止まらない。

 これは、恋しい婚約者を他の男に奪われて取り戻そうと足掻あがく男の姿ではない。


 そんな甘やかな気配は、レイフェルドからは一片たりとも感じられない。


 まるで、お気に入りの玩具を奪われて癇癪かんしゃくを起す子どものような。


 誰かに取られるくらいなら、自分で壊してやると言いたげな狂気をはらんだ怒りに、血の気が引く。


 もし攫われたのがエリティーゼ本人だったら、どんな目に遭わされていたのか、恐ろしすぎて考えたくない。


「お許しください! どうか、ご寛恕かんじょを!」


 いつくばって許しをうていた男達が、必死にレイフェルドをなだめようとする。


「夜が明ければ、皇位はレイフェルド殿下……、いえっ、新皇帝レイフェルド陛下のものでございます!」


「そうなれば『銀狼国の薔薇』を手折るも愛でるも、陛下の思うがまま」


「まもなく出立のお時間です! 何卒なにとぞ、何卒……っ!」


 夜が明ければ皇位はレイフェルドのものとは、いったいどういうことなのだろう。

 尋ねたいが、恐怖に喉が詰まって、声を出すことすらできない。


 レイフェルドの視界に入ることすら恐ろしくて、トリンティアは手を縛られたまま、床の上で必死で身を縮める。


「この役立たずどもが!」


 舌打ちとともに、何度蹴りつけたかわからない男をもう一度、足蹴あしげにしたレイフェルドが、苛立たしげに部屋を出ていく。


 荒々しく扉が閉まる音とともに姿が見えなくなり、トリンティアはようやく詰めていた息を吐き出した。


 身体の芯まで恐怖で冷えきったかのように、身体が動かせない。


 『冷酷皇帝』の恐ろしさとは、違う。

 ウォルフレッドはなまける者、義務を果たそうとしない者には厳しいが、決して道理を無視した非道を押しつけたりはしない。


 だが、レイフェルドは。


 前髪で隠されていない左目を飢えた獣のようにぎらつかせていた姿を思い出すだけで、身体の奥から震えが湧きあがる。


 前途洋々な第四皇子としてエリティーゼと婚約していた頃のレイフェルドは、傲慢さの中にも、華やかな優雅さがあった。自分こそが次代の皇帝となるのだという自負に裏打ちされた鷹揚おうようさが。

 だが、今は。


 行方不明の間に、いったい何があったのか。


 鋭い険を宿した面輪は、元々の顔立ちが美しいだけに、かえって恐ろしく感じる。


 まるで、手負いの飢えた獣のようだ。機嫌を損ねれば、即座に喉笛を噛み千切られそうな圧迫感。


 かつて、サディウム伯爵にさんざん虐げられてきたトリンティアの勘が告げている。決して、レイフェルドの気を引いてはいけないと。


「くそっ、狂人めが……っ」


「馬鹿者っ! 滅多なことをいうなっ!」


 レイフェルドが去ったのを見て、床に伏してひたすら暴力に耐えていた男達が、のろのろと身を起こす。


 若い男が血の混じった唾とともに吐き捨てた呟きを、壮年の男が血相を変えてとがめた。


 レイフェルドが戻ってくるのではないかと、そら恐ろしそうに扉を振り返る。


「戻ってきやしねぇよ。どうせ、『花の乙女』のところへ行ったんだろ。あの色情狂が、くそ……っ」


 侮蔑の言葉を吐き捨てた若い男が、トリンティアに顔を向ける。

 憎しみのこもった視線に、トリンティアはびくりと身体を震わせた。


「私室にいたから、てっきり本人だと思ったってのに……っ」


 ずかずかと大股で近づいてくる男に、トリンティアは小さく身を縮める。だが、手を縛られた状態では、動くこともままならない。


 そもそもここはどこで、どうやって逃げればよいのか。


 窓の外が真っ暗なので、夜だというのはわかるものの、いったい自分がどれだけの間、気を失っていたのかも判然としない。


 足音も荒く近づいてくる若い男から少しでも逃げようと、ずりずりと後ずさるものの、すぐに背中が固い壁にぶつかる。


 若い男がトリンティアの目の前に立ち、ぎらついた目で見下ろしたかと思うと。


「ひっ!」


 突然、がんっ、と顔のすぐそばの壁を蹴りつけられ、目をつむって悲鳴を洩らす。


 怖い。久々にサディウム伯爵に会って、過去の記憶が甦ってしまったせいだろうか。身体の震えが止まらない。

 固く閉じたまぶたから、涙があふれそうになる。けれど。


「よ、夜が明ければ皇位はレイフェルド殿下のものとは……。どういうことですか……?」


 大切なウォルフレッドの皇位が狙われていると知って、聞かなかったことにはできない。


 夜明けには『天哮の儀』が行われる。ウォルフレッドのこれからの治世にとって大切な儀式だというのに、妨害をするつもりなのだろうか。


 震え、泣きそうになりながら見上げると、壁に足をかけたまま、男が、へっ、と口元を歪めた。


「聞いてどうする? 知ったところで、ここから逃げられねぇってのに」


 男の言う通りだ。人違いだったとわかったところで、解放してくれるわけがない。


 絶望に囚われて呆けたように男を見上げていると、「へぇ」と男が唇を吊り上げた。


 目の奥に浮かんだ昏い情動に、本能的な恐怖を感じ、後ずさろうとする。が、すでに背中はぴったりと壁に押しつけられていて、これ以上は下がれない。


「『銀狼国の薔薇』じゃなかったってことは、この娘は俺達で好きにしていいってことだよな?」


 自分に言い聞かせるように呟いた男が、壁から足を離して身を屈め、トリンティアのあごを掴んで持ち上げる。


「いや……っ」


 欲望にぎらついた目に、反射的にかすれた声がこぼれる。顔を背けようとするが、怒りをぶつけるかのように顎を鷲掴わしづかみにした男の手は放れない。


 今まで向けられたことのない、情欲に満ちた視線が恐ろしくて仕方がない。


 男の顔がゆっくりと近づき――、


「おい待て!」

 トリンティアにのしかかろうとしていた若い男の肩を、壮年の男が掴む。


「邪魔をすんな! これからコイツに――」


「待て! ひょっとすると、レイフェルド殿下から褒美をもらえるかもしれんぞ!?」


「ああん?」

 年かさの男の声に、若い男がいぶかしげな声を上げる。


「別人を連れてきやがってと蹴られたばっかりなのに何を言ってやがる? 蹴られすぎて頭がおかしくなったのか?」


「違う! その娘のドレス……っ! 見覚えがあると思ったら、『花の乙女』のドレスだ! 今の乙女どもはだいぶガタが来てるって話だからな。新しい『花の乙女』、しかも憎いウォルフレッドに仕えていたのを献上したとなりゃあ……!」


 年かさの男が濁った笑い声を立てる。


 言いようのない嫌な予感が全身を満たしていくのを、トリンティアは震えながら感じていた……。

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