67 全部、あの方が教えてくれた


「ああ、なんて痛々しい……」


 トリンティアを私室へと連れてきたエリティーゼが、伯爵に殴られて赤く染まった頬を見て、可憐な面輪を痛ましげにしかめる。


 別邸に初めて来たトリンティアは、エリティーゼの私室に入るのも初めてだ。だが、サディウム領にいた頃、折檻せっかんを受けて痛む身体を、何度エリティーゼの私室で手当てしてもらったことだろう。


「大丈夫です、お姉様。一度ぶたれただけですから。このくらい……」


 じんじんと痛むものの、口の中も切れていないし、骨も大丈夫だ。


 トリンティアの言葉に、エリティーゼは「だめよ」と目を険しくする。たとえ怒っている時でさえ、トリンティアが大好きな姉は、いつでも美しい。


「真っ赤になっているではないの。ちゃんと手当てしなくてはだめよ」


 サディウム領にいた頃と同じように、義妹を優しく叱ったエリティーゼの目が、ふとやわらぐ。


「せっかく綺麗になったのですもの。跡が残るようなことがあったら大変だわ。本当に、見違えるように美しくなって……。陛下に、大切にしていただいているのね」


「っ」

 思わず息を飲む。


 トリンティアが変わったのだとすれば、ウォルフレッドのおかげだ。


 ウォルフレッドが、ありとあらゆるものを与えてくれたから……。

 十分な食事と柔らかな寝台。美しい絹のドレス。


 それだけではない。


 こんな自分でも誰かの役に立てるのだという自信も、大切にされることの喜びも、恋をする幸せも、それを失った哀しみも――。


 全部、ウォルフレッドが教えてくれた。


 ウォルフレッドのことを想うだけで、泣きたいほどに胸が痛くなる。


 まさか、ウォルフレッドがサディウム伯爵から助けてくれるとは、夢にも思っていなかった。


 トリンティアのために怒ってくれたなんて……。


 たとえそれが皇帝の権威を傷つけられたという理由であったとしても、涙があふれそうになるほど、嬉しい。けれど。


 トリンティアは唇を噛みしめて感情を押し殺す。


 エリティーゼにも決して、恋心を知られるわけにはいかない。もしかしたら、ウォルフレッドに嫁ぐかもしれないのだ。これ以上、優しい義姉を、トリンティアのせいで苦しませたくない。


 幸い、エリティーゼはトリンティアの表情の変化を、痛みのせいだと思ってくれたらしい。


「かわいそうに。痛むのでしょう? 待っていて。今、冷たい水で濡らしたハンカチを持ってくるから……。お父様の命で、今わたくしの私室の周りは人払いをしているの」


 トリンティアが止める間もなく、エリティーゼが出ていってしまう。トリンティアは別邸の部屋の配置を知らないとはいえ、伯爵令嬢であるエリティーゼ自らに取りに行かせるなんて申し訳ない。


 一人きりになったトリンティアは、自分はこれからどうなるのだろう、と不安と共に思う。


 今なら、ウォルフレッドに頼めば王城の侍女として残してもらえるかもしれない。エリティーゼもきっと口利きしてくれることだろう。


 そうすれば……。遠くからでもウォルフレッドの姿を目にする機会に、恵まれることがあるかもしれない。


 もうとっくに見限られているのに、自分の浅ましさが情けなくなる。


 戻ってきたエリティーゼにこんな顔を見られてくなくて、厚いヴェールを再び下ろす。と。


「エリティーゼお嬢様。いらっしゃいますか?」


 こんこん、と扉が叩かれた。使用人がサディウム伯爵がどうなったのか伝えに来たのだろうか。


 が、エリティーゼは今、ここにはいない。


「はい」


 不在の旨を告げようと、扉を開けた途端。


 廊下にいた二人の男が、部屋に踏み入ってくる。

 トリンティアの知らぬ若い男と、壮年の男。


「だ、誰――、っ!」


 誰何すいかしようとしたトリンティアの腕を男の一人が掴み、乱暴に引き寄せる。


 たたらを踏んで前屈みになった首の後ろに重い衝撃が走り――。


 トリンティアは抵抗する間もなく意識を失った。



  ◇   ◇   ◇



「火事だ!」


 使用人達の叫びを聞いた途端、ウォルフレッドはセレウスを放し、廊下に飛び出した。

 銀狼の血ゆえの鋭敏な嗅覚が、焦げくさい臭いをかすかに感じ取る。


 廊下を走っていく使用人の一人の腕を掴んで、無理やり引き止める。


「エリティーゼ嬢はどこだ!? わたしが連れてきた『花の乙女』はっ!?」


 噛みつくように問う。ウォルフレッドの剣幕に悲鳴を上げた従僕が、声をかけたのが皇帝と知って、さらに目を見開く。


「エリティーゼお嬢様は、陛下と共に私室に行かれたのでは……?」


「私室はどこだ!?」

「に、二階の……っ」


 位置が分かったところで従僕を放り出して駆け出す。


「陛下!?」


 セレウスの呼ぶ声がするが黙殺する。駆け出していくばくも行かぬうちに、廊下の先にエリティーゼの華やかな姿を見つけた。


「エリティーゼ嬢! トリンティアはっ!?」


 一緒に応接室を出たはずなのに、なぜエリティーゼだけがここにいるのか。だが、今はそれを問いただしている暇はない。


「トリンティアはどこにいるっ!?」


「も、もしまだ逃げていなければ、わたくしの私室に……っ」


「トリンティアはわたしに任せて、あなたは避難を!」

 エリティーゼの返事も待たずに再び駆け出す。


 幸い、エリティーゼの私室は火事が起こっている場所とは真逆らしい。


 無人の廊下をひた走り。


「トリンティア!」


 乱暴に扉を開け放つ。


 だが、部屋の中は無人だった。トリンティアがつけていた薔薇の香油の香りだけが、ほんのわずかに揺蕩たゆたっている。が、本人はどこにもいない。


「くそっ!」

 舌打ちする間も惜しく、きびすを返す。


 トリンティアは愚かではない。きっと先に逃げているのだと。逃げていてくれと願いながら。


 屋敷の外へ飛び出すと、晩秋に似合わぬ炎の熱気と狂騒が広い庭に渦巻いていた。


 今にも雨が降り出しそうな曇天が地上まで下りてきたかのように、煙で視界が悪い。


 井戸から水を汲んで消火する者、邸内から高価な家財を運び出す者。別邸の使用人達が慌ただしく動いている。だが。


 その中のどこにも、トリンティアの姿がない。『花の乙女』の白いドレスを纏った華奢きゃしゃな少女が。


「セレウス! トリンティアを見たか!?」


 庭の片隅にエリティーゼ達と避難しているセレウスに駆け寄る。が、セレウスもエリティーゼも、険しい表情でかぶりを振る。


「いえ、それがまだ見ておりません」


「くそっ! どこにいる!?」


「陛下!?」

 セレウスの声を無視して、来た道を駆け戻る。


 別邸とはいえ、屋敷はそこそこの広さだ。まだ燃えていない部分のほうが多い。


 トリンティアのことだ。動転して逃げる途中で足をくじき、座り込んでいる可能性も否定できない。


 屋敷に入る寸前、厚く垂れこめていた灰色の雲から、ぽつりと雨粒が落ちてきた。


 これで火事も消えるだろう。頭の片隅で冷静に考えながら、ウォルフレッドはトリンティアの姿を求めて、邸内に飛び込んだ。


 

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