66 わたしの花を傷つける者は、誰であろうと断じて許さん


「エリティーゼ嬢」

「あ、あの」


 廊下の角を曲がり、人目が途切れた瞬間、ウォルフレッドと同時にエリティーゼも口を開いた。気まずい沈黙が二人の間に落ちる。


「どうぞ、先に」


 今にも気を失うのではないかと不安になるほど張り詰めたエリティーゼの表情に、ウォルフレッドは内心の焦りを押し隠して先を譲る。


 美貌のエリティーゼを前にしても、心を占めるのはトリンティアのことだ。


 サディウム家に連れて行かれると知った時、気を失いそうなほど蒼白になって震えていたトリンティアの面輪が、頭から離れない。


 叶うなら、抱きしめて慰めてやりたかった。だが……。


 どんな顔をしてトリンティアに接すればいいというのだろう。


 まるで、出逢った日に戻ったかのように震え怯えながら、「花を摘んでください」とセレウスに言わされていたトリンティア。


 もし、腕の中へ抱き寄せた時に、以前のように震えられたら……。罪悪感で、心が引き裂かれそうだ。


 ほ、と小さくこぼれたエリティーゼの吐息に、ウォルフレッド我に返る。エリティーゼが、蒼白な面輪でウォルフレッドを見上げていた。


「一つだけ、お教え願えますか? 陛下がお連れになっていた『花の乙女』。彼女は、もしかして……」


「気づいたのか?」

 予想外の問いかけに、思わず驚きの声がこぼれる。


「サディウム領にいた頃とは、かなり様変わりしているはずだが……」


 初めて出逢った時は鶏がらだったとは思えないほどに、トリンティアは花が咲くように美しい娘に変わっている。それに、正体を悟られぬよう厚手のヴェールもつけさせていたというのに。


 ウォルフレッドの言葉に、エリティーゼがあでやかに微笑んだ。

 今日、初めて見せる正の感情をのせた笑み。


「血はつながっておりませんけれども、トリンティアは大切な妹ですもの。サディウム領にいた頃よりふっくらとして……。大切にしていただいているのですね。あの子を王城にやることができて、本当によかった……」


 エリティーゼが『銀狼国の薔薇』とたたえられるにふさわしい美しい笑みをこぼす。


 だが、ウォルフレッドの心に突き刺さったのは薔薇のとげのように鋭い痛みだった。


 大切に、したいと思う。

 だが、本当にトリンティアを大切にできているのか……。今のウォルフレッドには、まったく自信がない。


 トリンティアの笑顔を曇らせたくなどないのに、実際にウォルフレッドがしていることといえば、トリンティアを怯えさせ、挙句の果てには命の危険にさらし……。


 己の外道さに、反吐へどが出る。


 だが今、それをエリティーゼに懺悔ざんげしたところで何になるのだろう。

 詫びるのなら、トリンティア本人に詫びねば意味がない。


 この訪問さえ終わったら……。

 『天哮の儀』の前に、一度、ちゃんとトリンティアを話し合わねばと思いながら、ウォルフレッドはエリティーゼを見やる。


「エリティーゼ嬢。トリンティアから、あなたに結婚の話が持ち上がっていると聞いたのだが」


 告げた瞬間、エリティーゼの美しい面輪が凍りつく。


「……そのお話は……。お父様が断られました……」

 肩を落としてうなだれるさまは、雨に打たれてしおれる花のようだ。


「それは、わたしに妃として嫁ぐためか?」


 答えを知りつつ問いかけると、面輪を上げたエリティーゼがはかなげに微笑んだ。


 大切なものを何度も諦めてきた者が見せる、哀しげな笑み。


「わたくしは、意気地がないのでございます……。トリンティアがずっと辛い目に遭っていたのに、お父様に面と向かってやめてくださいと言うこともできず……。そして今もまた、想う方との結婚を白紙にされたというのに、あらがうこともできず、お父様の命に従っているのです……」


 今にも泣き出しそうなエリティーゼの面輪。ふつうの男なら、彼女を抱きしめ、哀しみを癒そうと躍起やっきになっていたに違いない。だが。


 ウォルフレッドの心に最初に浮かんだのはトリンティアのことだった。


 彼女もこんな風に、何もかもを諦めた表情で、サディウム領で過ごしていたのだろうか。サディウム伯爵の暴力に怯えながら。


 出逢ったばかりの頃の怯えていたトリンティアの様子を思い出すだけで、斬られたように胸が痛む。


 今すぐ、怯えることなど何ひとつないのだと、トリンティアを安心させてやりたい。わたしがお前を守るから大丈夫だと。


 そう、願ったウォルフレッドの耳に。


「お許しください!」

 かすかなトリンティアの悲鳴が届く。


 考えるより早く走り出す。


 嫌な予感がウォルフレッドを駆り立てる。

 セレウスには、今日、サディウム伯爵を捕らえるつもりだと、事前に告げられていた。


「伯爵はエリティーゼ嬢をえさに、陛下の歓心を買うに違いありません。それを利用して、陛下は伯爵と別行動をしていただきたいのです。陛下の前では、伯爵は警戒して失態を犯さぬでしょうから」


 と。セレウスに告げられた時は、深く考えずに頷いた。


 だが、サディウム伯爵が犯す「失態」とは。


 ぞっと血の気が引くのを感じながら、セレウス達が入った部屋の扉を押し開ける。

 その瞬間、ウォルフレッドの目に飛び込んで来たのは。


 床にへたりこみ、恐怖に引きつった顔でサディウム伯爵を見上げるトリンティアと、今まさにトリンティアに拳を振り上げる伯爵の姿――。


「何をしている!?」


 自分のものとは思えないひび割れた声がほとばしる。


 びくりと扉を振り返った伯爵に駆け寄り、振り上げていた右の手首を力任せに掴む。

 容赦のない力で握られた伯爵が呻き声を上げた。が、そんな雑音は耳に入らない。


「答えよ。何をしていたと聞いておる」


 問いつつ、トリンティアに視線を向ける。


 殴られたのだろう。信じられぬと言いたげにウォルフレッドを見上げるトリンティアの左頬が赤く染まり、白いドレスの左肩が汚れているのを見た途端、脳が沸騰ふっとうするほどの怒りに襲われる。


 握りしめた手首がみしりと異音を鳴らし、伯爵が「が……っ」と苦悶の声を上げた。


 が、こんな程度では生温なまぬるい。


「どうした? 鵞鳥がちょうにでもなったのか? ならば、このまま絞め殺してやってもよいのだぞ? それとも、腹を切り裂いてやろうか?」


 信じられぬほど狂暴な感情が噴き出してくる。


 痛みのあまり、脂汗を流す伯爵の手首を、このまま握りつぶしてやろうかと考え。


「トリンティア!」

 ウォルフレッドに続いて駆け込んできたエリティーゼの声に、我に返る。


「大丈夫?」


 美しい面輪を痛ましげに歪めたエリティーゼが、床に座り込んだままの義妹へ駆け寄る。

 エリティーゼの登場に、ウォルフレッドはようやくわずかに冷静さを取り戻した。


 そうだ、頬をらしたトリンティアをこのままにはしておけない。


「エリティーゼ嬢。トリンティアのことを頼んでよいだろうか?」


「は、はい」

 ウォルフレッドの頼みにこくりと頷き、エリティーゼがトリンティアへ優しく手を伸ばす。


「いらっしゃい、トリンティア。ひとまず、わたくしの部屋へ……」


 エリティーゼに連れられて応接室を出ていくトリンティアの後姿を、ウォルフレッドは無言で見送る。


 本当は、ウォルフレッド自身がトリンティアを抱き上げ、大丈夫だと安心させてやりたい。だが、サディウム伯爵を野放しにするわけにはいかぬ。


 トリンティア達が出ていき、完全に扉が閉まるのを待ってから、ウォルフレッドは伯爵へ視線を向けた。


 骨を折ってはいないが、伯爵は脂汗を流して、苦悶の呻きをこぼし続けている。人に痛みを与えることには慣れていても、自分が味わうのには弱いらしい。


 侮蔑と怒りに、心が冷えていくのを感じる。

 伯爵に視線を据えたまま、ウォルフレッドはセレウスに命じた。


「セレウス。サディウム伯爵の罪を」


「かしこまりました」

 セレウスが喜色を浮かべて頷く。


「エリティーゼ嬢で陛下の歓心を買えるとおごった罪。陛下の『花の乙女』に暴力を振るった罪。皇女であるトリンティアから身の証を立てる品を奪い、長年、虐げてきた罪。り取り見取りですが、いかがいたしましょう?」


「え、冤罪えんざいだ!」


 楽しくて仕方がないと言わんばかりの声で罪を並べ立てるセレウスに、伯爵が泡を食って言い返す。


「す、全てはソシアとかいう女のせいだ! あの女が、トリンティアには『花の乙女』の資質がない、この娘は皇帝の娘ではないと言ったばかりに……っ! 全部、その女が悪いのだ! わたしは無実だ!」


「たとえ、ソシアの告げたことの真実がどちらであろうとも」


 なおも言い募ろうとする伯爵の言葉を、叩き斬る。


「仮にも養女とした娘に暴力を振るい、虐げてよいわけがなかろう?」


 トリンティアがあんなにも怯えるようになった原因を作った男。

 そんな奴を許してやる気など、欠片もない。


「お前の爵位を剥奪はくだつし、罪人として裁くのは、過去の罪だけでも十分だが」


 腹の底から湧き上がる激情が、ウォルフレッドの声を刃のように鋭く、重く変じる。


「お前は、わたしの大切な花を傷つけたな? トリンティアが許しを求めたのに聞き入れず、容赦なく。わたしの花を傷つける者は、誰であろうと断じて許さん」


 煮えたぎる怒りのままに、手の中のものを握り潰す。


 異音と共にサディウム伯爵の絶叫が響いた。

 だが、ウォルフレッドは眉一つ動かさず、伯爵の手を放す。耳障りな叫びを上げながら伯爵が床にくずおれるが、視線を向けもしない。


「セレウス。この下衆げすを逃げぬよう拘束しておけ。痛みで死んだところで構わぬ。ああ、死ぬ前に前皇帝のブローチの件だけは確認しておけ。エリティーゼ嬢はわたしがいったん身元を引き受けた上で、しかるべき貴族に嫁がせる。異論は認めん」


「は、かしこまりました」


 恭しく応じるセレウスの声は、隠しきれぬほど弾んでいる。


 長年、仇と憎んできたサディウム伯爵を、ついに失脚させたのだ。

 セレウスがここまで感情をあらわにして喜ぶのも珍しい。それだけ、恨み骨髄こつずいだったということか。だが。


 ウォルフレッドは大股に歩み寄ると、顔を上げたセレウスの襟首えりくびを掴んで、荒々しく引き寄せた。


 虚を突かれてまたたくセレウスの目を、額がふれるほどの近さで射抜き。


「かつて、わたしはお前に言ったな。この国を良くするためならば、お前の策に乗って利用されてやる、と。だが」


 襟首を掴んだ手に力がこもる。


「トリンティアまで利用してよいと許した覚えは、一度もないぞ?」


 ウォルフレッドなら、いくら利用しても構わない。もともと、そういう約束だ。


 だが、トリンティアは。今まで誰かの思惑にさんざん振り回され、辛い思いをしてきた彼女だけは。


 ウォルフレッドにセレウスを責められる資格などないことは、わかっている。それでも。


 誰であろうと、トリンティアを道具のように扱うのは許さない。


 セレウスの瞳がわずかに揺れる。その口が開かれるより早く。

 ざわり、と廊下の向こうで気配が揺らめいた。同時に。


「火事だ! 誰かが屋敷に火を放ったぞ!」


 慌てふためく使用人達の声が、ウォルフレッドの耳に飛び込んで来た。

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