63 まるで、冷たく淀んだ底なし沼に引きずり込まれてゆくように


「何を立ち止まっているのです? 早く乗りなさい」

「は、はいっ。申し訳ございません」


 馬車の踏み段に足をかけたところで凍りついたように動きを止めたトリンティアは、背後からセレウスに冷ややかに促され、つんのめるようにして馬車に乗り込んだ。


 立派な馬車に先に乗っていたのはウォルフレッドだ。他に人はいないので、座席は十分に空いている。


 だが、ウォルフレッドの隣に座ってよいのかどうかわからずまごついていると、ウォルフレッドがトリンティアを見もせずあごをしゃくった。


「向かいへ」

「は、はい」


 絹のドレスの裾を踏みつけそうになりながら、ウォルフレッドの斜め向かいの席へ座る。


 今日は厚手のヴェールをつけられていて、本当によかったと思う。


 一日半ぶりにウォルフレッドの姿を目にしただけで、嬉しさと切なさで涙があふれそうになる。


 結局、一夜明けた後も、トリンティアはウォルフレッドに呼ばれぬままだった。


 やはりウォルフレッドに見限られてしまったのだと、心の中で嘆き、けれどもそれを外に出すまいとこらえながら、今日もイルダの手伝いをして午前中を過ごし……。


「支度をしますよ」

 とイルダに声をかけられたのは、昼食をとったすぐ後だった。


 わけもわからぬまま、謁見の間に侍る時と同じように、『花の乙女』を示す古式ゆかしい白い絹のドレスを着せられ、髪を結い上げて厚手のヴェールをかぶせられ……。


 夕べ、セレウスに今日は出かけると告げられていたが、まさかウォルフレッドも一緒だとは、思いもしなかった。


 トリンティアに次いで乗り込んできたセレウスがウォルフレッドの隣に座ると、馬車が動き出した。


 今日は馬車の周りに騎馬の騎士達の姿はなく、セレウスも皇帝の供の文官にふさわしい上等な衣服を身に着けている。


「あの、セレウス様……。いったい、どちらへ行かれるのですか?」


 なぜだろう。背中が粟立あわだつような嫌な予感がする。


 怯えながら問うたトリンティアに、セレウスがあっさりと告げる。


「王都にあるサディウム伯爵の別邸ですよ。『天哮の儀』の前に、ぜひとも陛下にお会いしたいと、嘆願がありましてね」


「っ!」


 セレウスの言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になる。

 ふらりと傾いだ身体が、ごつりと馬車の壁にぶつかった。


「おいっ!?」

 ウォルフレッドの鋭い声に、はっと我に返る。


「も、申し訳ございません!」


 反射的に謝りつつも、トリンティアの意識はここではないどこかに飛んでいた。


 身体の震えが止まらない。自分自身をかき抱く両手は、血の気が引いて氷のように冷たい。


 かちかちとひっきりなしに音がすると思ったら、自分の歯の音が鳴り止まぬ音だった。


 視界がくらい。身体の芯が定まらなくて、吐き気がする。

 まるで、冷たく淀んだ底なし沼に引きずり込まれてゆくような。


 サディウム家に、戻されるのだ。


 絶望とともに、トリンティアは己の身に起ころうとしていることを理解する。


 身の程知らずの不敬な想いを抱く『花の乙女』など、邪魔なだけだと。こんなものは要らぬと、突き返されるのだ。


 サディウム伯爵はどれほど怒り狂うだろう。


 家の恥だ、王城勤めもまともにこなせぬのか。やはりエリティーゼのすすめなど聞いてやるのではなかったと……。折檻せっかんされるのは想像に難くない。


 長年、心と体に刻み込まれた暴力の記憶が甦ってきて、こらえようとしても、涙が浮かんでくる。


 嫌だ。怖い、恐ろしい。もう、あんな地獄には戻りたくない。


 すがるようにヴェール越しにウォルフレッドを見つめる。


 斜め向かいに座るウォルフレッドは、トリンティアなど視界に入れるのも嫌だと言いたげに顔を背け、窓を外に視線を向けている。


 苦虫を嚙み潰したような張り詰めた面輪は、怒りを抑えつけているかのようだ。


 つい一昨日は、体温が感じられるほどすぐそばに座っていたというのに。

 たった二日前のことが、遠い過去のように思える。


 いったい、どこで間違ってしまったのだろう。


 トリンティアの出自が明らかになったから? 悪名高い前皇帝の血を引く者など、不要な争いを招くだけだと。


 襲撃の時に怯えて足を引っ張って、ウォルフレッドが射られる原因となってしまったから?


 それとも――分不相応な想いを抱いていると、悟られてしまったから?


 わからない。それとも、全てが理由なのだろうか。


 淀んだ思考だけが、出口を見つけられぬまま、ぐるぐると渦巻いている。


 だが、クビだと告げて王城から放り出せばよいものの、なぜ、ウォルフレッドとセレウスが一緒なのだろうか。


 よくもこんな輩を寄越したなと、サディウム伯爵を責める材料に使われるのか。


 それとも、これがイルダの言っていた「とりなし」なのだろうか。せめて、サディウム家まで連れて行ってやるというのが、ウォルフレッドの最後の優しさなのだろうか。


 トリンティアが絶望に震える間も、馬車は車輪の音を響かせて進んでゆく。


 がらがらと鳴る車輪の音が、トリンティアには鎖に繋がれた罪人を刑場へと引っ立ててゆく葬送曲にしか聞こえなかった。



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