62 陛下の大切だった方
偽りは許さぬと言いたげな鋭いまなざしに、トリンティアはびくりと震える。
ああ、やはりミレイユは、ウォルフレッドの秘された想い人で、トリンティアごときが名を口にすることすら許されぬ高貴な方なのだ。
胸を貫く痛みに耐えながら、トリンティアは震える唇を苦労して動かす。
「陛下が、夢現に呼ばれていたのです……。ミレイユ様のお名前を切なげに……。あ、あのっ、決してミレイユ様のお名前を他言する気はございません! 陛下の……大切な想い人でいらっしゃるのでしょう……?」
トリンティアの答えに、イルダが小さく吐息する。
「ええ、陛下の大切な方であったのは間違いありませんね……」
イルダの言葉が胸を突き刺す。唇を噛みしめたトリンティアに、イルダが静かに言を継いだ。
「ですが、ミレイユ様が陛下のお側に侍られることは決してありえません。あの方は――二年前に、お亡くなりになっているのですから」
「え……?」
かすれた声で呆然と呟く。
イルダは今、なんと言ったのだろう。
ウォルフレッドの想い人のミレイユが……。すでに、故人になっている?
見開いた目から、残っていた涙の雫がぽろりと落ちる。
「誤解のないように言っておきますが」
トリンティアと視線を合わせ、イルダが告げる。
「わたくしは別に、あなたを責める気はありませんよ」
いつもと変わらぬ淡々とした声。
けれど、その陰に隠しきれない想いが揺れていて。
もしかしたら、イルダもかつて、同じように苦しい恋をした経験があるのかもしれないと、ぼんやり思う。
が、イルダは問う隙を与えてくれなかった。
「心など、思うようにならぬもの。むしろ、止めねばと思うほど、かえって想いが深まるものでしょう? それを責めようとは思いません。ですが」
イルダの瞳が、剣のごとき鋭さを宿して、トリンティアを見据える。
「あの方は、銀狼国の皇帝であらせられる御方。生半可な者では、隣に並び立つことなど、到底かないません。ミレイユ様のように、命を落とす危険すらありましょう。――トリンティア。あなたに、その覚悟はありますか?」
初めてウォルフレッドに「何者だ?」と問われた時と同じ、首筋に刃を押しつけられたような圧が、イルダから発される。
「わ……」
イルダの目を真っ直ぐに見返しながら、トリンティアは緊張にひりつく喉を何とか動かした。
「わかりません……。こんな想いを誰かに
抑えきれない感情に、再び涙があふれてくる。
「陛下が、大切なんです。ずっと役立たずと
ウォルフレッドに応えてもらおうなんて、思わない。そんなこと、ありえないとわかっている。
ただ、ウォルフレッドのために、何でもいいからできることがしたい。
初めてトリンティアを「守る」と言ってくれた人。言葉通りに、トリンティアを庇って矢の雨に身を
もし、あの時ウォルフレッドが守ってくれなければ、トリンティアは今、ここにいなかっただろう。
いったいどうすればウォルフレッドに大恩を返せるのか、トリンティアには思い浮かばない。
――自分はもう、ウォルフレッドの側にいることすらできないのだから。
トリンティアの返事は、果たしてイルダの目に
イルダが視線を伏せ、そっと吐息する。
「……少し、昔話をしましょうか」
いつもより、ほんの少し柔らかな声。
どこか懐かしむような……同時に、トリンティアには想像もできぬほどの深い哀しみを秘めた。
「ミレイユ様は……。正しくは、陛下の想い人ではありません。実際に陛下がどう思われていたのか、わたくしにはわかりかねますが……。ミレイユ様は陛下のお父上、シェリウス候のご寵愛を受けていた『花の乙女』であり……。陛下は、ミレイユ様を年の離れた姉のように深く慕っておいででした」
「姉のように……」
ぽつりと呟いたトリンティアに、イルダは「ええ」と頷く。
「ミレイユ様はとてもお美しくて、いらっしゃるだけでその場が明るくなるような方でした。陛下がお飲みになられていた『乙女の涙』は全て、ミレイユ様が作られていたのですよ。大切な方の愛息だからと……。あのまま、何事も起こらなければ、おそらくシェリウス候は、早めに陛下に家督を譲られ、ミレイユ様を正式に妻として
イルダの面輪が、今にも泣き出しそうに歪む。
「あれは、前皇帝のご葬儀の帰りでした。前皇帝をお
常に冷静さを失わないイルダの声がひび割れる。
「賊の正体は、今もわかっておりませんが、おそらく皇子達のどなたかか、もしかしたら複数の皇子達が結託したのでしょう。並みの兵士達では、銀狼の力を持つ者に適うはずがありませんから。王都に残っていらした陛下は、からくも難を逃れましたが……」
「ど……、どうしてですか!? だって、皇子ということは、叔父と甥なのでしょう!? それなのに……っ」
信じがたい話に、トリンティアはかすれた声を絞り出す。
ウォルフレッドは若い皇帝だと思っていた。が、まさか父親を殺されていたなんて……。そんなこと、想像もしていなかった。
トリンティアの問いに返ってきたのは、イルダの苦い声だった。
「閑職に追いやられていたとはいえ、シェリウス候は亡き皇帝の弟……。皇族の中では最年長であり、人望も、これまで積まれてきた実績も、成人して数年も経っていない皇子達より、群を抜いてらっしゃいました。皇子達にとって、シェリウス候は皇位争いを勝ち抜くために、いち早く排除したい存在だったのでしょう」
つう、とイルダの瞳から、ひとすじの涙が伝い落ちる。
「そんなことをしなくとも……。あの方は、皇位など欲してらっしゃらなかったのに……っ」
血を吐くような悲嘆の声に、トリンティアの心まで、刃で貫かれたように痛くなる。なんと声をかければよいかわからず、途方に暮れて黙していると、イルダがふっ、と胸の中の感情を押しやるように吐息した。
「後はあなたも知っている通りです。陛下は血で血を洗う争いの末に、他の皇子達を制し、皇帝へと登りつめられました」
話し終えたイルダが、厳しいまなざしでトリンティアを貫く。
「皇位につかれましたが、陛下の治世はまだ盤石とはいえません。その陛下のお側にお仕えするということは、今度も昨日のような命の危険がないとは言えないということです。それでも――あなたは、陛下のお側にいたいと?」
イルダの視線に、昨日、自分に向けられた殺意を思い出す。
憎悪に血走った目。命を欲してぬめるようにぎらつく刃。
恐ろしくないわけがない。
今でさえ、思い出すだけで身体の震えが止まらなくなる。
「ゆ、夕べ、わたしは震えるばかりで何もできませんでした……。でも」
トリンティアは真っ直ぐイルダの目を見つめ返す。
「私の命を救ってくださったのは陛下です。陛下がいらっしゃらなければ、私は無事ではいられませんでした。ならば、私の命は助けてくださった陛下のもの。陛下のお役に立てるのでしたら、できることはなんでもいたします!」
勢い込んで告げたトリンティアは、言い終えた瞬間、我に返って目を伏せた。
「ですが……。私はもう、陛下に呆れられてしまいました……。いくら私がお慕いしたとしても陛下にはご迷惑でしょう……」
情けなくて目が潤む。
なぜ、いっときの感情に負けて、あんなことを願い出てしまったのだろう。
トリンティアが余計なことを口にしなければ、まだウォルフレッドのそばにおいてもらえていたかもしれないのに。
自分の愚かさが情けなくて、いくら責めても責め足りない。
トリンティアは
「お願いです、イルダ様! どうかお教えくださいませ! 私などでもまだ……。わずかなりとも、陛下のお役に立てることはありますか? ソシア様に『乙女の涙』の作り方をお教えいただければ……。私でもまだ、陛下のためにできることがあるでしょうか……?」
「トリンティア……」
イルダが感心とも呆れともつかぬ声を洩らす。
「陛下はおそらく……」
何やら言いかけたイルダが、ふるりとかぶりを振る。
「いいえ。わたくしごときが陛下のご心情を推し測るのは不敬ですね。トリンティア、陛下には折を見て、わたくしから取りなしておきましょう。ですから、今日はゆっくりとお休みなさい。心身を整えておくことも『花の乙女』の立派な役目ですよ」
「はい……っ」
いたわりに満ちた優しい声に、新たな涙が浮かぶのを感じながら、トリンティアはこくりと素直に頷いた。
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