61 陛下のお側に侍る必要はありません


「今宵は、陛下のお側に侍る必要はありません」


「え……?」


 いつものように湯浴みを終え、後はウォルフレッドの私室に行くばかりとなっていたトリンティアは、セレウスに告げられた言葉に、呆然と声を洩らした。


「夜も……、ですか?」

「ええ。陛下が必要ないと」


 淡々と応じたセレウスが、トリンティアの返答も待たずにきびすを返そうとし、ふと思い出したように振り返る。


「ああ。明日は所用であなたも出かけてもらいますから。イルダ、詳しくはおって連絡します」


「かしこまりました」

 呆然と立ち尽くしているトリンティアに代わり、イルダが応じる。


 セレウスが無言で出ていき、ぱたりと扉が閉まった瞬間。


 トリンティアは、糸が切れたようにへなへなと床にへたりこんだ。


「トリンティア!?」


 珍しくイルダが慌てた声を上げる。イルダが手を軽く払うと、侍女達が衣擦きぬずれの音だけを残して、無言で下がっていった。が、トリンティアはそれすら気づかない。


 衝撃に白く染まった頭の中で、セレウスに告げられた言葉だけが、ぐるぐると回っている。


 今朝、ウォルフレッドがトリンティアを置いて私室を出て以来、今日は一度も顔を合わせていない。


「昨日、襲撃があったばかりですから。今日はゆっくり休むようにとの陛下のお言葉です」


 朝、イルダにそう告げられた時は、無理やり自分を納得させ、イルダに頼み込んで仕事を手伝わせてもらい、ウォルフレッドのことは考えないようにしながら、夕方まで忙しく立ち働いていたのだが……。


 いつものように、湯浴みの準備ができたとイルダに告げられた時、心の底から安堵した。


 ウォルフレッドはトリンティアを気遣って、休ませてくれただけで、夜にはいつものようにそばにいられるのだと。


 ウォルフレッドに会ったら、朝の非礼を詫びよう。苦しんでいる姿を見て、思わず口に出してしまっただけなのだと……。ウォルフレッドを不快な気持ちにさせるつもりなどなかったのだと。


 そう、謝罪しようと思っていたのに。


 焦点の合わない目から、はらはらと涙がこぼれ落ちる。


 なんと愚かで能天気だったのだろう。

 ウォルフレッドはとうにトリンティアに呆れ果てていたのだ。もう用済みとなったおとりを侍らせる理由など、どこにもないと、少し考えればわかることなのに。こんな愚か者、ウォルフレッドに見限られて当然だ。


 床に座り込み、涙をこぼし続けるトリンティアの耳に、かすかな衣擦れの音が聞こえる。


 『花の乙女』として役立たずになった今、イルダや侍女達も、トリンティアの世話をする必要などない。


 同僚達と使っていた使用人部屋へ戻ればいいのだろうか。そして、明日には王城を出ていくように命じられるのだろうか……。セレウスが言っていた所用というのは、そのことかもしれない。


 ぼんやりした頭で考えていると、不意に肩に手をかけられ、驚きにびくりと震える。


「イルダ、様……?」


 もう誰もいないと思っていたのに、イルダだけが残っていたらしい。


 気遣わしげにトリンティアを見つめるイルダと視線が交わる。

 トリンティアの肩に手を置いたまま、イルダが静かに口を開いた。


「トリンティア、あなた……。陛下に、恋をしているのね?」


「っ!」

 問われた瞬間、息が詰まる。驚きのあまり、涙さえぱたりと止まった。


「あ、あの……っ」


 壊れた人形のようにぎこちない動きで、必死にかぶりを振る。


 どうしてわかってしまったのだろう。心の奥底に、固くかたく封じていたはずなのに。涙と一緒に、恋心まであふれてしまったのだろうか。


「も、申し訳ございません……っ!」


 新たな涙に瞳を潤ませながら。トリンティアは床に額をこすりつけて平伏する。


 震えが止まらない。

 いくらウォルフレッドが凛々しく、素晴らしい人物であろうとも、トリンティアのようなみすぼらしい者が、『花の乙女』の身分を越えて特別な想いを寄せるなど、許されることではない。


 どれほど叱責されるだろうか。叱責だけならばよい。

 不敬罪に問われ、王城を追い出されることになったら……。


 サディウム領に戻り、またあの地獄の日々に戻るのかと考えただけで、恐怖で頭が真っ白になる。


 ふたたびサディウム領に戻るくらいなら、いっそのこと、恐怖と哀しみで、このまま心臓が止まってほしいとさえ願う。そうすれば、トリンティアごと、ウォルフレッドへの想いも葬り去れるのに。


「……なぜ、謝るのです?」


 感情のうかがえない静かな声に、びくりと肩が震える。


 謝るということは、恋心を認めたも同じだ。

 早く弁解せねばと理性が叫んでいる。けれど。


 トリンティアはふたたび額を床にこすりつけた。


「も、申し訳ございません! 自分がどれほど分不相応で、愚かな想いを抱いているのか、承知しております! 不敬罪で罰せられても仕方がございません! ですが……っ」


 ウォルフレッドに想いを告げることなんて、許されないのは知っている。告げるつもりもない。


 けれど、たとえ一生、心に秘めることになっても、この想いにだけは、嘘をつきたくない。


 心の中で、星のようにきらめくもの。


 すでに砕け散った想いは、ふれるたびに粉々になった硝子のようにトリンティアを傷つける。それでも。


 この想いまで失くしてしまったら、もう二度と自分の意志で息ができないような気がする。


 サディウム領にいた頃は、伯爵の目にふれぬようにと、ひたすら息をひそめていた。王城へ来ても、同僚達の顔色を窺い、罵倒されないように自分を押し殺して過ごし……。


 ウォルフレッドも、最初は同じだった。

 『冷酷皇帝』が恐ろしくて、恐ろしくて……。恐怖で息ができないとさえ思った。


 けれど、実際に接したウォルフレッドは、『冷酷皇帝』の噂とは全く逆で、トリンティアを気遣ってくれて……。


 優しくしてくれたのは、『花の乙女』だからだとわかっている。それでも、エリティーゼを除けば、トリンティアを気遣ってくれる人なんて初めてで。


 ましてや、「守る」と約束してくれた人なんて。


 甘やかな香りとあたたかさに包まれて眠る夜が、どれほどの幸せを与えてくれていたか、ウォルフレッドは知らぬだろう。


 胸の奥まで息を吸い込んで、安心とともに眠れる夜が訪れるなんて……。想像すらしたことがなかった。


 ウォルフレッドの麝香じゃこうの香りを思い出すだけで、泣きたいほどに切なくなる。今はもう、二度とそばに感じることのできぬ甘やかな香り。


「わ、私などが想いを寄せていい御方ではないと承知しております! 陛下には、一言たりともお伝えする気はございませんっ! ソシア様やイレーヌ様に張り合おうという気など、決して……っ」


 だから、ただ心の中でだけ想うことを許してほしいと告げようとして。


「ソシア様もイレーヌ様も、今夜、陛下のお側に侍られてはいませんよ」


 静かな声で告げられた内容に、思わず顔を上げる。


「そうなのですか……?」

「ええ。お二人のご支度は承っておりませんから」


「で、では、ミレイユ様が……?」


 ウォルフレッドが愛しげに呟いていた名前。

 その名を出した途端、イルダの表情が凍りついた。


「その名を、どこで聞いたのです?」



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