60 それ以外は、求めていない。


「ベラレス公爵の金の小箱は陛下の私室でございますが……」


 セレウスがふところから小さな革袋を取り出す。


「ひと所に保管して、万が一、何かあってはと、小分けにしたものを持っております」


「よこせ」


 セレウスの周到さに、私室に戻らずに済むことを安堵しつつ、差し出された小袋を奪い取る。手のひらにいくつか出した薄紅色の丸薬を口の中に放り込み。


「どうかなさいましたか!?」


 手で口を押えて動きを止めたウォルフレッドに、セレウスが顔色を変えて詰め寄る。


「もしや毒が――っ!?」

「違う。毒ではない」


 もう片方の手でセレウスを制し、かぶりを振る。


「だが……。数か月ぶりに『乙女の涙』を口にしたせいか、それとも作った者が違うからなのか……。こんな違和感は初めてだ。苦痛は確かに減じるゆえ、毒でないのは確かだが……」


 自分でもうまく言葉にできない。


 トリンティアにふれている時は、感情まで優しくなだめられるような安らぎを感じるのだが……。ソシアの丸薬には、それがない。


 いや、そんなものは不要だと、ウォルフレッドは口から離した手を握りしめ、自分が求めているのはこれではない、と叫ぶ感情を押し込める。


 『花の乙女』も『乙女の涙』も、必要なのは苦痛を癒す効能、それだけだ。それ以外のものなど、求めていない。決して。


「で、昨日の愚か者どもはどうした?」


 ウォルフレッドは胸中で渦巻く感情から目を背けるようにセレウスに問う。


 『天哮の儀』が間近に迫った今、悩んで立ち止まっている時間など、欠片もないのだ。


 問いかけにセレウスが即答する。


「すでに首謀者だけでなく賛同者まで調べはついております。現在は逃亡防止のため兵を派遣し、屋敷に蟄居ちっきょさせておりますが……」


 セレウスが自分の机の上にあった何枚かの書類をウォルフレッドに差し出す。


「陛下のご署名さえいただければ、今日にでも首を斬れるよう、手はずを整えております」


 ウォルフレッドは受け取った書類をぱらぱらとめくる。


 記されていた貴族達の名は、『天哮の儀』の中止を求めて謁見しに来た輩どもだ。

 徒党を組まねば、ウォルフレッドに意見すらできぬ小物達。だが――。


 初めて『花の乙女』として謁見の間に引き出されたあの日、恐怖と緊張のあまり気を失ったトリンティアの蒼白な面輪を思い出すだけで、狂暴な気持ちが湧きあがる。


 ウォルフレッドは一つ吐息して、胸の中の感情を手放すように、乱暴に書類を執務机に放り投げた。


 ばさり、と書類が乱れて広がる。


 駄目だ。先ほどから、どうにもトリンティアの顔が頭の中をちらついて離れない。


「逃亡の心配がないのなら、ひとまずはこのままでよかろう。『天哮の儀』の直前に、刑場を血で濡らす必要もあるまい」


「よろしいのですか?」


 セレウスが予想外の返事を聞いたとばかりに問い返す。


「恩赦を与えたところで、改心するような心根は持ち合わせていないと思いますが。後顧の憂いを断つためにも、『冷酷皇帝』らしく、果断に処罰されてもかまわぬかと」


「だが、いつまでも恐怖だけで人は縛れまい」


 ウォルフレッドは苦い声で呟く。


「ベラレス公爵も味方についたのだ。『天哮の儀』が成功すれば、わたしの皇位を認める貴族達が大勢たいせいを占めよう。この国を健やかに発展させるためにも、歪みは少しずつ正してゆかねば」


「それについては陛下のおっしゃる通りでございますが……」


 徹夜のせいでやや落ちくぼんだセレウスの薄青い瞳が、苛烈な光を宿す。


「この国のうみを出し切るためにも、陛下には『冷酷皇帝』として今一度、刃を振るっていただきとうございます」


 セレウスが、懐からすでに開封された手紙を取り出す。


「サディウム伯爵より、内々の招待状が届きました。『天哮の儀』の前に、ぜひとも陛下にお会いしたいと」


「サディウム伯爵が?」

 思わず厳しい声が出る。


「何用だ?」


「トリンティアの素性は、特に隠してはおりませんからね。その気になれば、彼女がサディウム家の者だと、すぐに知れましょう。強固なレイフェルド派だったサディウム伯爵が、陛下に最初の『花の乙女』を献上したとなれば、同じ派閥の貴族達に恨まれるのは必至……。今頃、サディウム伯爵がどのような顔で右往左往しているか考えるだけで、心が躍りますね」


 セレウスが整った面輪を歪ませ、追い詰めた獲物の喉笛を噛み千切る獣のような、嗜虐的しぎゃくてきな笑みを浮かべる。


 セレウスがこれほど感情をあらわにする相手は、サディウム伯爵だけだ。


 かつて、セレウスの父親を讒言ざんげんで陥れ、処刑される原因を作った男。


 薄青い瞳を妄執にぎらつかせるセレウスは、たとえウォルフレッドが誘いを蹴ろうとしても、聞き入れぬだろう。何より、ウォルフレッド自身も、サディウム伯爵には確認しておきたいことがある。


「招待を受けよう。返答はお前に任せる」


「かしこまりました。では、明日の午後で約束を取りつけましょう」


 一礼したセレウスが、「それと」と言を継ぐ。


「先ほど、先ぶれがございまして、新ベラレス公爵が参られるとのことです。公爵家の帰途での襲撃でございましたから、身の潔白を証したいのでしょう。加えて、ベラレス家が陛下のお味方となったことを印象づけられるためかと」


「であろうな」


「謁見のお支度を」

 告げるセレウスに応じ、立ち上がる。


 身体の奥に、熾火おきびのように苦痛がくすぶり続けているが、『乙女の涙』のおかげで、動くのに支障はない。むしろ、忙しいほうが気が楽だ。


 でなければ、すぐにトリンティアの泣き出しそうな顔がまなうらに浮かんで、心が千々に乱れてしまいそうで。


「セレウス。『乙女の涙』があるゆえ、今日は『花の乙女』はいらぬ。昨日の今日だ。少しは休ませてやらねば、『天哮の儀』の目前に倒れられては困るからな」


 トリンティアを心配している気持ちに偽りはない。


 今まで、戦いに巻き込まれることなどなかったトリンティアには、昨日の襲撃は恐怖以外の何物でもなかったに違いない。


 高確率で襲撃は起きるだろうと予測していたものの、緊張する茶会の前に、襲撃のことまで伝えて怯えさせては、とあえて伝えていなかったが、教えてやっておいた方がよかったのかもしれない。


 だが、今更悔やんでも後の祭りだ。


 何より、ウォルフレッド自身が、セレウスに告げた言葉は、建前に過ぎないと自覚している。


 しばらくはトリンティアを視界の中に入れたくない。


 もし今、トリンティアにふれたら――身体の中で荒れ狂う飢えのままに、約束をたがえて華奢きゃしゃな身体を抱き潰してしまいそうで。


 ただでさえ、前に「傷つけぬ」と告げた言葉を違えてしまったのに、もう一度約束を破るなど、怒りと情けなさで自分の首をかき斬りたくなる。


 銀狼に変じたことに後悔はない。変じていなければ、賊達を撃退できなかった。だが、数か月ぶりに銀狼の力を振るったことが、これほど心身に影響を及ぼすとは。


「かしこまりました。陛下がそうおっしゃるのでしたら、トリンティアは今日はイルダ殿に預けて骨休みさせましょう。……彼女には、明日も大役を演じてもらわねばなりませんからね」


 命令に、恭しく応じるセレウスを後ろに従え、ウォルフレッドは謁見の準備を整えるべく、執務室を出た。

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