59 代償というのなら、痛みくらい、いくらでもつきあってやる。


 告げた瞬間、ウォルフレッドの碧い瞳が驚愕にみはられる。


 緊張のあまり、涙で潤んだ目で見上げていると、ウォルフレッドの唇がわなないた。


 何か言いかけた唇は、しかし一言も発せられぬままに引き結ばれる。

 トリンティアに告げる言葉などないと示すように、固く、冷ややかに。


「陛――」


 呼びかけは、みなまで言わぬうちに断ち切られた。

 両肩を掴まれ、なかば突き飛ばすように乱暴に引きはがされる。


「昨日の襲撃で混乱しているようだな。今日は休め」


 一方的に言い置いたウォルフレッドが、さっと身を翻し、寝台を下りる。止める間もなかった。


 そのまま振り返ることなく大股に私室を出ていき。


 ウォルフレッドの背を追うトリンティアの視線を遮るかのように、大きな音を立てていつもより乱暴に扉が閉まる。


 ――まるで、トリンティアを拒絶するかのように。


 その音を聞いた途端。

 トリンティアの目から、こらえきれなくなった涙があふれ出す。


 失敗してしまった。たとえ、こんな状況であろうとも、ウォルフレッドはトリンティアなどに手を出したくないのだ。


 固く引き結ばれた唇も、突き飛ばすようにトリンティアを引きはがした手も。

 明確に、トリンティアを拒絶していた。


 なんと愚かだったのだろう。


 涙をぬぐいもせずうなだれながら、己の行いを悔やむ。


 もしかしたら、と心の中では一縷いちるの望みを抱いていた。


 トリンティアの不安を払おうと髪を撫でてくれた手も、怪我はないかと案じてくれた声も、思わずすがりつきたくなるほどに優しくて。


 もしかしたら――たった一度だけならば、寵を与えてもらえるのではないかと。


 トリンティアを見なくてもかまわないから。『花の乙女』としての価値だけを見てくれればよいから。

 なのに。


 こんな時でさえ、トリンティアは抱く価値すらないなんて。


 不快に思っただろうか。身の程知らずもはなはだしい愚か者よと、軽蔑されただろうか。


 だが、一度告げてしまった言葉はもう、二度と消せない。いっそのこと、トリンティアごと消してしまえたらよいのに。


 いったい何と言って謝ればウォルフレッドの許しを得られるかわからず、トリンティアは一人寝台に座り込んで、途方に暮れて涙を流し続けた――。



  ◇   ◇   ◇



「陛下!」


 乱暴に扉を閉め、廊下へ出たウォルフレッドに、扉のすぐそばで待機していたゲルヴィスとイルダが駆け寄ってくる。


 二人を無視して、ウォルフレッドはくるりと背を向け、歩き出す。


 どこでもいい。とにかく、一刻も早くここから立ち去りたかった。


「どこに行かれるんすか!?」

「お加減はいかがでございますか!?」


 口々に問うゲルヴィスとイルダに、「構うな」とすげなく告げる。が、そんな程度で引き下がるゲルヴィスではない。


「ひっでぇ顔色で何をおっしゃってるんすか! 嬢ちゃんはどうしたんです!?」


 肩を掴もうとした手を、乱暴に振り払う。


 ばしんっ、と鞭打むちつような大きな音が静かな廊下に響き渡る。

 手がしびれたのだろう。ゲルヴィスの手が中途半端な位置で止まる。


 トリンティアのことを持ち出された途端、我を忘れて容赦なく力を振るってしまった。


 ウォルフレッドは足を止めると、軽く息を吐いて、できる限り感情を出さずにイルダに命じる。


「イルダ。トリンティアの様子を見てやってくれ。昨日、襲撃を受けたせいで、ひどく動揺しているらしい。……頼む」


 トリンティアの震え、今にも泣き出しそうな顔を思い出すだけで、心の柔らかな部分に爪を立てられているような気持ちになる。


「かしこまりました」


 ウォルフレッドの最後の言葉に小さく息を飲んだイルダが、だが余計なことは何も言わず、一礼して廊下を戻っていく。


「ゲルヴィス。お前もトリンティアについてやれ。さすがに、昨日の今日で襲撃はなかろうが……」


 昨日、トリンティアに向けられた凶刃を思い出すだけで、狂暴な感情が湧き上がってくる。


 だが、トリンティアを傷つけるという意味では、ウォルフレッドも大差ない。


 ウォルフレッドはゲルヴィスが何か口にするより早く、言を次ぐ。


「少し、一人になりたいだけだ。落ち着いたら、すぐに公務に戻る。それまで、トリンティアを頼んだ。……トリンティアも、わたしよりお前のほうがよかろう」


 最後の呟きは、無意識に苦くなる。


 ゲルヴィスがはーっ、と大きく息を吐き出して、仕方なさそうに大きな手で頭をかいた。


「わかりましたよ。けど、無理はなさらないでくださいよ。明らかに本調子じゃないでしょう?」


「わたしのことならば、心配いらぬ」


 すげなく返すと、もう一度、特大の溜息をつかれた。


「ったく。言い出したら聞かないんすから。セレウスみたいなことは言いたくないっすけど、明後日の夜明けは、『天哮の儀』っすからね。嬢ちゃんと何があったか知りませんが、それまでにそのお顔、もうちょっとましにしておいてくださいよ」


 なぜトリンティアが原因ということまでわかったのだろう。長年のつきあいのゲルヴィスに内心、舌を巻きつつ、別の問いを口に出す。


「セレウスはどうしている?」


「寝ずに昨日の後始末に走り回ってるっすよ。陛下がお目覚めになったと知れば、報告に来るんじゃないっすかね?」


「そうか」


 正直、今はセレウスの顔も見たくない。

 一つ頷くと、ウォルフレッドは今度こそゲルヴィスに背を向ける。


 向かった先は、私室からさほど離れていない執務室だ。


 無人の室内にほっとする。セレウスとゲルヴィスの机の間を通り抜け、奥の自分の椅子にどかっと座る。


「くそ……っ」


 こぼれ出た声は、自分でも驚くほど荒かった。


 ――私の花を、摘んでいただけませんか……?


 トリンティアの申し出を聞いた時、幻聴かと咄嗟とっさに疑った。

 自分の中の欲望が、幻となって現れたのだと。


 だが、劣情は今にも泣き出しそうな顔で震えているトリンティアを見た瞬間、氷水を浴びせられたように凍りついた。


 血の気の引いた面輪で、ウォルフレッドの顔色をうかがうさまは、『冷酷皇帝』の噂に怯えていた頃と、なんら変わりなくて――。


 セレウスに、無理やり言わされているに違いないと。


 あたたかく柔らかな身体を引きはがせたのは、奇跡に近い。あと一呼吸、遅れていたら、欲望に押し流されていただろう。


 そして我に返った時、守ると約束した少女を自らの手で傷つけてしまった怒りで、我が身に牙を立てていたに違いない。


 ウォルフレッドは身体の中でいまだに渦巻く劣情を押し出すように、長く息を吐き出した。


 苦痛は、まだ身体の中で暴れまわっている。

 骨がきしみ、内臓が腐っていくかのような痛みに吐きそうだ。


 だが、これがトリンティアを傷つけずにすんだ代償だというのなら、こんな痛みくらい、いくらでもつきあってやる。


 もう一度、安堵と苦痛が入り混じった息を吐いたところで。


 前触れもなく、執務室の扉が開けられた。


「陛下?」


 ウォルフレッドがいるとは予想だにしていなかったのだろう。セレウスが戸口で立ち止まり、目をまたたかせる。


 鎧こそ脱いでいるものの、ゲルヴィスがの言っていた通り、一睡もしていないのだろう。疲れがにじむ怜悧れいりな面輪の中で、目だけが獲物を探す獣のように底光りしている。


「トリンティアに何を吹き込んだ?」


 セレウスの顔を見た途端、抑えきれぬ怒りが湧き上がり、糾弾が口を突いて出る。セレウスが動じた風もなく片眉を上げた。


「ああ。ついに抱かれましたか?」


「抱くわけがなかろう!」


 荒ぶる感情のままに、拳を天板に叩きつける。

 だんっ、と荒々しい音が静かな執務室に響き渡る。


 が、セレウスは憎らしいほど泰然としたままだ。


「なぜです?」

 と、理解できないと言わんばかりに首を傾げる。


「ベラレス家でのことは、ゲルヴィスより聞きました。まさか、トリンティアが前皇帝の娘だったとは。驚きましたが、これほどこちらに都合がよいこともございません。皇女を屈服させたとなれば、前皇帝派も気勢ががれましょう。まったくあの娘は、思わず感謝したくなるほど、あれこれ役に立ってくれますね」


「ふざけるなっ!」


 考えるより早く、怒声が飛び出す。

 もし銀狼の姿のままだったら、飛びかかり、喉笛に噛みついていただろう。


「トリンティアは道具ではない! 利用するのはわたしが許さんっ!」


「なぜでございます?」


 ウォルフレッドの激昂に返すセレウスの声は、恐ろしいほどにいでいた。


「皇位を手に入れ、この国を変えるために、今までありとあらゆるものを利用してきたといいますのに。なぜ、あの娘だけを特別に扱うのです?」


 とすり、とセレウスの問いかけが矢のように胸に突き刺さる。


 咄嗟に言葉が出てこない。


 なぜ、という問いかけだけが、頭を巡り。


「……言ったはずだ。わたしは前皇帝のように、『花の乙女』に溺れる惰弱だじゃくな王にはならぬと」


 告げた声は、苦痛にまみれ、ひび割れていた。


 セレウスが呆れたように眉をひそめる。


「その志はご立派ですが、今は間近に迫った『天哮の儀』をつつがなく執り行うことが最重要事項でございます。そもそも、『花の乙女』は、皇族の苦痛を癒すために存在するもの。それをおもんぱかるなど、本末転倒ではございませんか」


「『天哮の儀』は、必ず成功させる。当然だろう?」


 セレウスに言われずとも、『天哮の儀』の成功が今後の治世においてどれほど重要なのか、ウォルフレッド自身が誰よりも承知している。


 だが、答えた声は苦痛がにじみ、覇気はきに欠けていた。セレウスが怜悧な面輪をしかめる。


「かなりお辛いようでございますが」


「ベラレス公爵から献上された『乙女の涙』があっただろう? どこだ?」


 今の状態でトリンティアに会える気がしない。

 もう一度、あたたかな身体を抱き寄せたら――今度こそ、抑えが利く自信がない。

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