58 今ならば、きっと


 目覚めた瞬間、自分を見下ろす碧い瞳と目が合って、トリンティアは喜びに大きく息を吐き出した。


「よかった……っ」

 嬉しさに涙がにじみそうになる。


「ずっと苦しそうになさっていて……。お加減はいかがですか?」


 問うたが、返事はない。


 碧い目をみはり、トリンティアを見つめる表情からは、何を考えているのかうかがい知れない。


「陛、下……?」


 もう一度呼んだところで、先に言わねばならぬことに思い至る。


「あ、あの! 助けていただいて本当にありがとうございました! 私をかばってくださったせいで、陛下がお怪我を……っ! どれほどお詫び申しあげても足りぬと重々承知しておりますが、申し訳ございませんでした……っ!」


 抱きしめられているのでうまく頭が下げられず、ウォルフレッドの胸に頭をこすりつけるような形になってしまう。


 拭われてもかすかに残る血の臭いと共に、いつもの麝香じゃこうの甘やかな香りが漂い、安堵する。


 ウォルフレッドが目を覚ましてくれて、本当によかった。


「お前は、怪我をしていないか?」

 ぎこちなく紡がれた問いに、こくこくと何度も頷く。


「はいっ。陛下が守ってくださったので、私はどこも――、ひゃっ!?」


 突然、強く抱きしめられて、息が詰まる。


「そうか、よかった……っ。約束を、守れたのだな」

 胸に迫るような安堵の声。


「で、ですが、そのせいで陛下が毒矢に……っ」


 昨日のことを思い出すだけで、かたかたと身体が震え出す。


 トリンティアが足手纏いだったせいで、ウォルフレッドを傷つけてしまったなんて。


「よい。あの程度の矢も毒も、銀狼の血を引くわたしには、何ほどのこともない」


 震えるトリンティアをなだめるように、ウォルフレッドがそっと髪を撫でてくれる。優しく頼もしい、大きな手のひら。


「夕べは、ずっとわたしについていてくれたのだな」

「あ……っ」


 髪のことなどすっかり忘れていたが、茶会の時のままだ。昨日は綺麗に結い上げてもらっていたが、一夜経って、ひどい有様になっているに違いない。


「も、申し訳ございませんっ。みっともないところを……」

「よい。気にするな」


 頭を撫でていたウォルフレッドが、しゅるりとリボンをほどく。ほどけた髪がはらはらと肩に落ちた。


「ずっとわたしのそばにいてくれた証だろう? おかげで、銀狼に変化へんげしたにもかかわらず、動ける程度にはましだ」


 痛みをこらえるようなウォルフレッドの声に、トリンティアの胸まで痛くなる。


「銀狼になられるのは、おつらいのですか……?」


「お前には知らせぬままになってしまったな。恐ろしかっただろう?」


 問いかけは、別の問いではぐらかされる。


 トリンティアが恐ろしいと答えると予想しているかのような、どこか投げやりな声。

 トリンティアは必死でぶんぶんとかぶりを振った。


「恐ろしいだなんて! 欠片たりとも思いませんでした! 美しくて、息を飲むほど神々しくて……っ。何より、助けてくださった陛下を恐ろしいと思うはずがございません!」


 トリンティアの返事に、ウォルフレッドが驚いたように目を見開く。


 だが、返事はない。ただ、苦痛をはらんだ呼気が形良い唇から洩れる。


 やはり、まだ辛いに違いない。

 ウォルフレッドの身体の中では、いったいどれほどの苦痛が暴れまわっているのだろう。


 トリンティアはぎゅっと唇を噛みしめた。


 ここには、イレーヌもソシアもいない。いるのはただ、トリンティア一人だけだ。


 自分がこれから告げようとする言葉の大胆さに、身体がかたかたと震え出す。


 だが、機会があるとしたら今しかない。

 ウォルフレッドが苦痛にあえぐ今なら、もしかしたら。


 ウォルフレッドの窮地につけこむのだという罪悪感は、それを上回る焦燥に塗り潰される。


 今を逃したら、こんな好機は二度とない。今ならばきっと、トリンティアの恋心も、浅ましい欲望にも気づかれることなく、願い出られる。


 何より、トリンティアのせいで傷を負ったというのに、苦痛を押し隠してふだん通りに振るまおうとするウォルフレッドを、このまま放っておくなんてできない。


「陛、下……」


 身体の震えが止まらない。

 紡ぐ声が自分のものではないかのように遠く聞こえる。


 緊張にひりつく喉を苦労して動かし、碧い瞳を真っ直ぐに見上げて告げる。


「お願いでございます……っ。私の花を、摘んでいただけませんか……? どうか、『花の乙女』としての務めを、果たせてくださいませ……っ」

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