57 身体の奥の餓狼がけしかける


 ……懐かしい、夢を見た。


 皇帝となった今、ゲルヴィスでさえ呼ばなくなった「ウォルフレッド」と名を呼ぶ人の――。


 夢現ゆめうつつ狭間はざまを漂っていたウォルフレッドは、意識を取り戻した途端、跳ね起きようとして、身体を抱きしめる細い腕の重みに阻まれた。


 窓から差し込む光は明るい。いつの間に夜が明けたのか。


 驚きつつ視線を向けた先に、守りたかった少女の無事な姿を見とめて、ほっと息を吐き出す。


 同時に、意識を失う寸前のことを思い出した。


 ベラレス公爵の誘いを受ければ、愚か者どもが襲撃を企むに違いないと、ゲルヴィスを護衛とし、セレウスに密かに別動隊を指揮させ……。


 だが、敵の数を甘く見積もり過ぎていた。加えて、毒矢まで用意していたとは。敵も周到に準備を整えていたのだろう。


 いや、大軍も毒矢も、ウォルフレッドには何ほどのものでもない。

 ウォルフレッドと、ゲルヴィスだけであったなら。


 まじまじと、ウォルフレッドを抱きしめ、寄り添って眠るトリンティアを見つめる。


 健やかな寝息を立てているトリンティアは大きな怪我はしていないようで、心の底から安堵する。


 今度こそ守り切ると誓った存在を、約束をたがえず守れた喜びに、心が浮き立つ。


 そのためならば、毒矢の雨に身をさらすことすら、一片の躊躇ためらいも感じなかった。


 あたたかく、まろやかな身体を抱き寄せる。

 それだけで、身体の奥底でうごめく苦痛が、柔らかにけてゆく。


 皇位争いを制し皇帝となってからは、銀狼になることもなかった。


 久々に銀狼と化した身体は、骨がきしむような痛みを訴えている。体調が万全に戻っていないのに銀狼と化した上に、何本もの毒矢を受けたためだろう。


 トリンティアがふれているところから、ゆるゆると痛みがほどけてゆくが、全てを癒すにはほど遠い。


 明後日の夜明けには、『天哮の儀』が迫っているというのに、と吐息すると、くすぐったかったのか、トリンティアがもぞりと動いた。


 逃げようとするぬくもりを離したくなくて、華奢な身体を抱きしめたウォルフレッドは、トリンティアが薄物の下着しか身に着けていないことに初めて気がついた。


 毎夜、トリンティアを抱きしめて眠るウォルフレッドは、もちろん少しずつ肉がついてきているのを知っている。


 まだまだ華奢きゃしゃな身体は、ウォルフレッドが力を込めれば、抱き潰せそうなほどに細い。けれども出逢った時には骨と皮ばかりだった肢体は、いつの間にか娘らしい柔らかさを帯びていて。


 厚手の夜着ではなく、薄い絹の下着は、ウォルフレッドがぼんやりとしか気づいていなかったトリンティアの変化を、明白に伝えてくる。


 薄物に包まれた、匂い立つようなまろやかさを。


 喰ってしまえ、と不意に身体の奥で餓狼がろううなる。


 固く未熟だった実は、今や食べられるほどに色づいてきた。

 何を躊躇ためらうことがある? 『花の乙女』は銀狼を癒すための甘い果実。

 柔肌に牙を突き立て、思うさま甘美な蜜を味わえばよいと――。


 身体の奥底に巣食う苦痛が、餓狼の姿をとって、ウォルフレッドをけしかける。


 ――お前とて、喰らいたいのだろう?


 餓狼がウォルフレッドの心の幕をやすやすとみ破り、暴いてゆく。


 着飾ったトリンティアを見た時、思ったではないか。『花の乙女』にふさわしい、美しい乙女になったと。


 このまま、腕の中に閉じ込めて、己のものにしてしまいたいと。


 ――心の奥底まで、自分の前だけで暴いてみたいと。


 やめろ、とウォルフレッドはかすれた声で呟いて餓狼の誘惑をはねつけた。


 前皇帝のように、『花の乙女』におぼれる愚帝にはなる気は、微塵みじんもない。「手籠めになどせぬ」と交わした約束を破るような卑怯者には決してならぬ、と。


 そんな口約束を愚かに守ってどうする? と餓狼がウォルフレッドの意志をくじかせようとばかりに、せせらわらう。


 お前は銀狼国の皇帝ではないか。ウォルフレッドが白と言えば、黒いからすですら白く染まる。だというのに、取るに足らぬ小娘との約束を律儀に守ろうとするとは、片腹痛い。


 まるで獲物をいたぶるかのように、餓狼がウォルフレッドの心に甘い毒を送り込む。


 喰らいたいのだろう? 甘い蜜を思うさま飲み干したいのだろう?


 柔らかな身体に牙を突き立て、悲鳴も嬌声きょうせいも全て喰らい尽くし――。


 自分だけのものに、してしまいたいのだろう?


 身体の奥底から湧き上がってくる苦痛が、ウォルフレッドの理性を酩酊めいていさせる。


 腕の中のトリンティアが、今や人の形をした蜜酒に思える。


 初めてくちづけた夜のように、あたたかな口の中を蹂躙じゅうりんし、呼気さえ飲み干せば、どれほどの悦楽にひたれるだろう。


 腕の中で眠るこの花に、自分だけのものだという証を刻めば。


 けれど。


 脳裏にきついたトリンティアの泣き顔が、かろうじて理性を奮い立たせる。


 守ると約束した大切な花。その彼女を、ウォルフレッド自身が泣かせるわけにはいかぬ。


 すがるようにトリンティアを抱く腕に力をこめた瞬間。


「ん……っ、陛、下……?」

 苦しげに息を吐いたトリンティアが目を覚ます。


 失敗を悔やむが、もう遅い。


「よかった……っ。気がつかれたのですね……っ」


 目覚めたトリンティアがウォルフレッドを見上げ、花が咲きこぼれるような笑顔を見せた。

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