56 少しでも楽になりますようにと祈りながら


「トリンティア。あなたも着替えて、何か食べたほうが……」


「ですが……」


 気遣うイルダの声に、ウォルフレッドの私室に置かれた寝台のすぐ側の椅子に腰かけていたトリンティアは、ふるふるとかぶりを振った。


 寝台では、ウォルフレッドが荒く浅い呼吸を繰り返している。


 イルダとゲルヴィスの手によって、返り血をぬぐわれ、ゆったりとした夜着を着せられているものの、苦悶の表情は馬車にいた時となんら変わらない。


 トリンティアは馬車からずっと、片時も離さずウォルフレッドの手を握り続けていた。力を込め続けた両手は、感覚がなくなりつつある。


「陛下を案じる気持ちはわかりますが、そんなに気を張っていては、あなたのほうが倒れてしまいますよ」


 ふだん、表情を崩さないイルダが、珍しく眉根を寄せる。


「わたくしは陛下がご幼少のみぎりよりお仕えしておりますが、この状態ならば、命に別状はありません。銀狼に変化へんげなされた反動に襲われているだけでしょう」


 安心させるようなイルダの声に、逆に胸がずきりと痛む。


 銀狼の血による苦痛。ウォルフレッドがそれにさいなまれているということは。


「……イルダ様。ドレスを脱ぐのを手伝っていただけませんか?」


「ええ、もちろんですよ」


 イルダがほっとしたように息をついて、ドレスを脱ぐのを手伝ってくれる。


 トリンティアはまだお茶会の時の白い絹のドレスを着たままだ。ところどころ血に汚れ、しわがついた絹のドレス。


 ふだんのトリンティアなら、とんでもない粗相に恐慌に陥るところだが、今はそれどころではない。


 ドレスを脱がせてもらい、下着姿になると、解放感に思わず吐息が洩れた。


「ありがとうございました。そ、その……」


 意を決して、ウォルフレッドにかけられた掛布をめくる。片手をウォルフレッドとつないだまま、寝台に上がろうと膝をのせると、背後でイルダが息を飲む音が聞こえた。


「……わたくしは扉の前に控えています。必要でしたら、いつでも呼びなさい」


 淡々と告げたイルダが、ドレスを手に私室を出ていく。


 ぱたりと扉が閉まる音を聞いてから、トリンティアはそっとウォルフレッドの隣に横たわった。


 手をつないでいるより、ふれる面積が広いほうが、少しでもウォルフレッドが楽になるかもしれない。


 引き締まった身体に身を寄せる。片手で夜着の上から胸元に手を振れると、ぱくぱくといつもよりずっと速い鼓動が感じ取れた。


 毎夜、トリンティアを抱きしめて眠る時は、とくとくと穏やかな音を奏でる鼓動。


 それを聞くだけで、いつも切ないほどの幸せと、泣きたくなるような安堵に包まれるのに。


「陛下……」

 身を起こして、ウォルフレッドの面輪をのぞきこむ。


 眉を寄せ、苦しげな表情を浮かべる端正な面輪。


 荒く浅い呼気を吐き出す唇に、トリンティアはそっと己のそれを押しつけた。


 乾いて、ひやりとした唇。

 息がうまくできなくて離すと、血の気の失せた唇から、は、と呼気が洩れた。先ほどよりも、ほんのわずかに緩んだ呼吸。


 ほっとして、トリンティアは優しくやさしく、ウォルフレッドの唇にくちづけの雨を降らせる。


 愛しい人が少しでも楽になりますようにと祈りながら。


 胸が痛い。ウォルフレッドが今すぐ楽になってくれるなら、トリンティアの命など、捧げてしまってもいいのに。


 抑えきれない気持ちが、涙となってあふれそうになる。


 唇を噛んで涙をこらえ、トリンティアはウォルフレッドを真っ直ぐに見つめた。


 ゆっくりと、もう一度くちづける。


「ウォルフレッド様……」


 決して本人の前では口に出せぬ名前を紡いだ途端。


「ミレイユ……!」

 不意に、力強い腕に抱きしめられる。


「っ!?」


 視線を上げて確かめたが、ウォルフレッドは目をつむったままだ。


 秘められた名を知ってしまった驚きで、心臓がばくばくと跳ねている。


 ミレイユとは誰だろう。聞いたことがない名前だ。

 けれども、紡がれた声は、聞いたこちらの胸が痛くなるほどに切なげで。


 ――ウォルフレッドにとって特別な女性なのだと、嫌でもわかる。


 ウォルフレッドの婚約者なのだろうか。王城で見かけたことはないが、ウォルフレッドは皇帝だ。妃候補の四人や五人、いたところでおかしくない。


 ウォルフレッドの隣に立つにふさわしい美しい方。トリンティアが嫉妬すら抱きようのない、遥かな高みにいる女性ひと


 まだ見ぬその方のためにも。


「どうか……。早くお目覚めくださいませ……」


 トリンティアはウォルフレッドの胸元に頬を寄せ、傷だらけの身体をぎゅっと抱きしめた。

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