55 私にできることはありますか!?
「陛下っ!」
自分が射られるかもしれない恐怖より、ウォルフレッドを案じる気持ちに突き動かされて、思わず座席の下から
窓の向こうに、こちらに向かって放たれた幾本もの矢が、やけにゆっくりと飛んでくるのが見えた。
だが、矢が馬車へと届く前に。
白銀の毛並みが、窓の前に立ちふさがる。幾本もの矢を受けた銀狼がかすかによろめいた。
「陛下!」
「嬢ちゃん!? 隠れてろって言っただろ!?」
窓辺に駆け寄ろうとしたトリンティアのドレスの裾を、振り返ったゲルヴィスがむんずと掴む。力任せに引っ張られ、トリンティアはたまらず尻もちをついた。
「ですが陛下がっ!」
「あの方はこのくらいじゃ死なねえよ! それより大人しく隠れとけ!」
叫んだゲルヴィスが振り返り、敵の剣を受ける。その表情はいつもと違って余裕がない。
「くそ……っ」
ゲルヴィスが
「陛下! お待たせいたしました! よいか、一人たりとも賊を逃がすな!」
勇ましい声が朗々と響く。
「セレウス!」
ゲルヴィスが喜色に満ちた声を上げた。
「
文句を言いつつも、野太い声が弾んでいる。
「すみません。包囲網を敷くのに少々時間がかかりました」
戦いの音に混じって、セレウスの珍しく申し訳なさそうな声が届く。
トリンティアは全く知らされていなかったが、襲撃を予想していたウォルフレッドは、セレウスを別動隊として待機させていたらしい。
いかにも文官然としたセレウスが、騎士達の指揮まで
「セレウス様! 陛下が! 陛下が毒矢に……っ!」
窓からはもう、白銀の
震えが止まらない。床に座り込み、両手を胸の前で握りしめて、ひたすらにウォルフレッドの無事を祈る。
戦いの音に混じって、狼の声が聞こえる。少なくとも、動けなくなっているわけではないのだと信じたい。
どれほど祈り続けていただろう。
「嬢ちゃん、どいてくれ」
ゲルヴィスの声にはっとして目を開ける。
返り血で汚れた鎧のゲルヴィスが、マントに包まれた誰かを馬車に運び入れようとしていた。
血に汚れ、蒼い顔をしたその人は。
「陛下!」
「邪魔です」
取りすがろうとしたトリンティアを、セレウスが冷ややかに制する。トリンティアは慌てて壁際へにじり寄って場所を空けた。
馬車の床に横たえられたウォルフレッドのマントをセレウスがめくる。トリンティアは思わず視線を逸らせたが、ゲルヴィスによってか、簡素な下履きが履かされていてほっとする。だが、安堵している場合ではない。
目を閉じたままのウォルフレッドは、返り血に汚れた面輪を苦痛に歪ませ、荒く浅い呼吸を繰り返している。
「傷はすでにふさがりつつありますが……。毒というのが厄介ですね」
ウォルフレッドの身体を丹念に調べながら、セレウスが苦い声で呟く。
あんなに血が出ていた矢傷がふさがりつつあるなんて。これも銀狼の力なのだろうか。
「わ、私にできることはありますか!?」
ウォルフレッドが矢を受けたのはトリンティアのせいだ。最初の時も、矢の雨から守ってくれた時も。
足手纏いでしかない自分が情けなくて申し訳なくて、泣きたくなる。だが、泣くだけなら後からいくらだってできる。
勢い込んで尋ねたトリンティアに、ウォルフレッドから視線を逸らさずセレウスが告げる。
「では、陛下の手を握っていてください。ああ、くちづけてくれてもかまいませんよ」
「く……っ!?」
「銀狼の力がお強い陛下は、毒程度でどうこうなる方ではありません。その程度で殺される方なら、今までに何度、殺されていることか」
セレウスが冷笑をひらめかせる。
「ですが、体調が万全な時ならいざ知らず、今の陛下は、長期間の『花の乙女』の不在による不調を、未だに癒せてらっしゃらぬ状態。その上、負担のかかる銀狼の御姿に変化なされて……。この苦しみようも、毒のせいよりも、そちらが原因かもしれません」
一瞬だけ顔を上げたセレウスが、針のような視線でトリンティアを射抜く。
「別に、ここでまぐわえとは言いません。ですが、『花の乙女』の務めを果たさぬことは、わたしが許しません」
沸騰しかけた思考を、セレウスの氷よりも冷徹な声が冷ます。その拍子に、トリンティアは大切なことを思い出した。
「『乙女の涙』があります!」
慌てて馬車の中を見回すと、小箱は床に転がり落ちていた。
「ベラレス家で、ソシア様という『花の乙女』にお会いしたんです。これは、その方がくださったもので……」
説明しながら金の小箱を差し出すと、手早く箱を開けたセレウスが、中にたくさん入っている薄紅色の丸薬を数粒取り出し、強引にウォルフレッドの口を割って中に押し込んだ。
ウォルフレッドが目を閉じたまま、こくりと
が、すぐに荒い呼吸に変わり、トリンティアは慌てて両手でウォルフレッドの手を握りしめる。
「ベラレス公爵とのお茶会のことは、後でゲルヴィスから
「公爵家にいらっしゃいます。公爵は連れ帰られてはとおっしゃたのですが、陛下がお断わりになられて……」
「公爵家ですか。今から戻っていては、完全に陽が沈んでしまいますね。さすがに、今日はこれ以上の襲撃はないと思いますが……」
苦い顔で呟いたセレウスが立ち上がる。
「これ以上、わたしがここにいてもできることはありませんから、陛下はあなたにお任せします。もし陛下の呼吸が今より荒くなることがあれば、『乙女の涙』を二、三粒、お口へ入れてさしあげるように。城までは、ゲルヴィスが護衛します」
一方的に言い置いたセレウスが馬車を出ていく。
ぱたりと扉が閉められ、すぐに馬車が動き出した。
太陽はもう、ほとんど沈みかけている。夜の気配を運んでくる風が割れた窓から入って来る馬車の中で、トリンティアはひたすらウォルフレッドの手を握りしめていた。
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