54 必ず、守りきれ


 ぱたた、とトリンティアの頬に血飛沫ちしぶきが散る。


 何が起こったのか、わからなかった。

 恐怖に、思考が真っ白に染まる。


 馬が激しくいななき、馬車が手荒に止まる。


 混乱の極みに陥った耳に届くのは、降り注ぐ矢に傷つき呻く騎士達の悲鳴と、金属の鎧が鳴る固い音。悲痛な馬の鳴き声だ。


「ゲルヴィス! わたしが出る!」


 一瞬の矢の止み間に、ウォルフレッドが声を張り上げる。

 同時に、有無を言わさぬ力で、座席から引きずり降ろされた。


「隠れていろ」


 ウォルフレッドが座席の下に張られていた板を蹴り破る。

 がこっ、と板が外れ、ぽっかりと開いた人ひとり隠れるほどの空間に、トリンティアは力づくで押し込められた。


 押し込んだウォルフレッドの面輪が痛みに歪む。


 当たり前だ。豪奢ごうしゃな衣服に包まれた左肩には、今も矢が突き立ったままなのだから。ウォルフレッドが動くたび、絹の布地にじわじわと血の染みが広がってゆく。


 早く、手当てをしなければ。

 そう思うのに、凍りついたように身体が動かない。


 いったい、何が起こっているのか。なぜ、突然、襲撃されているのだろう。


「陛下! 嬢ちゃんは無事っすか!?」


 ゲルヴィスの声と同時に、乱暴に扉が開け放たれる。ゲルヴィスの無事を喜ぶより早く。


「無論だ。必ず守りきれ」


 告げたウォルフレッドの身体が、急激に膨れ上がる。


 幻ではない。内側から押し上げる筋肉に耐えきれなくなった服が、ぼろぎれのように床に落ち――。


 馬車に収まりきらぬほどの白銀の狼が現れたと思った瞬間、紫電のような残像とともに、馬車の外へ躍り出る。


 からん、と床に落ちたのは、盛り上がった筋肉に押し出された一本の矢だ。

 血濡れた矢じりが、夕陽を反射してぬめるように不気味に光る。


 畏怖いふと破壊が形を成したような、白銀の狼。


 建国神話にうたわれているのは、単なる比喩ひゆだと思っていた。代々の皇帝達の権威をたたえるための。

 だが、そうではなく。


 驚愕に息すらできない。見えぬ畏怖の手に、心臓を握りつぶされたかのようだ。


「嬢ちゃん! ちゃんと隠れてるか!?」


 開け放たれたままの馬車の扉の前に、ウォルフレッドと入れ違いに騎馬ごと立ちはだかったゲルヴィスの声に、ようやく我に返る。


「間違っても顔を出すんじゃねえぞ! ちゃんと奥へ引っ込んでろ! 何があっても、陛下と俺が守ってやるから心配すんな!」


 頼もしい声に、ようやく詰めていた息を吐き出す。途端、震えで歯の根が合わなくなった。


 怖い。怖い怖い怖い。


 サディウム伯爵にしいたげられていた日々が甦る。

 蹴りつけられ、殴られるだけでも耐えがたいほど痛いというのに、矢で射られ、剣で斬られたら、どれほどの痛みだろう。


 肩に矢傷を受けたというのに、鎧も纏わず馬車を飛び出したウォルフレッドは、無事なのだろうか。


 今にも壊れそうなほど、心臓がとどろいている。


 座席の下で、トリンティアは胸の前で両手を握りしめ、固く目を閉じてウォルフレッドの無事を祈る。


 がちがちと鳴る歯の音がうるさい。その音に混じって聞こえるのは、断末魔の悲鳴と、襲撃者達の殺意のこもった叫びだ。


簒奪者さんだつしゃに構うなっ! 『花の乙女』を狙え!」

「『花の乙女』さえ殺せば、簒奪者は遠からず自滅する!」


「っ!」


 狙われているのは自分なのだと――理解した途端、氷の手に心臓を鷲掴わしづかみにされる。


 同時に、ウォルフレッドの思惑を理解した。


 なぜ、イレーヌではなく、トリンティアを供に選んだのか。なぜ、ソシアを連れ帰らなかったのか。


 ウォルフレッドは最初から、襲撃を予想していたのだ。でなければ、座席の下にこんな細工をしておくわけがない。


 そして、トリンティアを供に選んだのは――『花の乙女』の中で、トリンティアが一番、いなくなっても、問題のない存在だから。


 胸の奥がずきりと痛む。固く閉じたまぶたから、抑えきれぬ涙がぼろぼろとあふれ出す。


 襲撃者の剣で貫かれるよりも、哀しみで心臓に穴が開く方が早いのではなかろうか。


「ふっざけんな! 嬢ちゃんに手を出させるわけがねぇだろうが!」


 すぐそばではがねと鋼が打ち合う音がする。


 ゲルヴィスの声にはっとして目を開ければ、襲ってきた男を斬り伏せるゲルヴィスの鎧に包まれた広い背中が見えた。


 無事な後姿に喜ぶ間もなく、新たな刺客がゲルヴィスに斬りかかる。

 ゲルヴィスが剣で敵の刃を受け止めるのが扉の隙間から見えた。


「くっそ、意外と多いな……っ」


 忌々しげに舌打ちしたゲルヴィスが敵を斬り伏せる。


 扉の前に立ちふさがらなくてよいのなら、馬を駆ってもっと自由に戦えるだろうに。


 だが、ゲルヴィスがいなくなったら最後、トリンティアは乗り込んできた男達に一息で刺し貫かれるだろう。


 怯えるトリンティアを嘲笑あざわらうかのように、不意にがしゃんと硝子ガラスが割れる音がする。


 視線を向ければ、刺客の一人が剣の柄で扉とは逆側の小窓を叩き割っていた。


 ひび割れたトリンティアの心のように、粉々に砕け散ったガラスがばらばらと床に落ちる。


 馬車の窓は、男が通り抜けられるほど大きくはない。


 だが、殺意にぎらついた目と視線があった途端、悲鳴が口からほとばしった。


「死ね! 売女めが!」


 男が手にした剣を振りかぶる。

 トリンティアはまたたきもできずに己に向けられた刃を見つめた。


 赤光しゃっこうを反射してぎらつく刃が放たれる寸前。


 狼のうなりが耳に届く。同時に白銀の毛並みが舞い、男の姿がかき消えた。


 何か重いものが地に伏す響きと、骨がみ砕かれる身の毛もよだつ音。

 ウォルフレッドに間一髪で助けられたのだと理解するより早く。


 白銀の狼が放った遠吠えが、辺りを圧する。


 天の星々までとすかのような、鋭い叫び。


 魂が千切れて消し飛ぶかのような畏敬いけいに打たれ、思考が白く染め上げられる。銀狼の神々しさに、我知らず涙がこぼれ出た。


 森の木々でさえ、ひれ伏すかのように木の葉を揺らすのをやめ、静まり返る。


「ひ……っ、ひるむなっ! 大義は我らにあるのだ! 射れ! 毒矢を放て!」


 静寂の中、いち早く我を取り戻した敵の男の声が、ひび割れた声でがなり立てる。


 弓の弦を引き絞るかすかな音。


 先ほど、ウォルフレッドの肩に突き立った矢が脳裏を駆け抜け、ぞっ、と血の気が引く。

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