53 わたしの腕は二本しかないのでな


「しっかし……。まさか、嬢ちゃんが前皇帝陛下の娘だったとはなぁ……。ん? ってことは、嬢ちゃんは皇女ってことか?」


 黙ったまま話を聞いていたゲルヴィスが、大柄な身体にふさわしい大きな息を吐き、首を傾げる。トリンティアは度肝を抜かれた。


「こ、ここここ……っ!? そ、そんなこと、ありえませんっ!」


 恐ろしさに、ぷるぷると震えながらかぶりを振る。冷静な声を上げたのはウォルフレッドだ。


「出自の証となるものがあれば、全くの不可能というわけではなかろうな。……ソシア。先ほど、ティエラは出奔の際、前皇帝から贈られたブローチを持って出ていったと言ったな?」


「は、はい……」


 とめどなくあふれる涙をハンカチでぬぐっていたソシアが、慌てて頷く。ウォルフレッドがトリンティアを振り返った。


「ブローチに覚えは?」


「い、いいえ!」

 トリンティアはぶんぶんと首を横に振る。


「ブローチなんて、全く知りません! そもそも、母様の遺品自体、私は目にしたこともなくて……」


「ということは、出奔中に売り払って金に換えたか――」


「サディウム伯爵がよからぬことを企んで、ふところに収めたか、でしょうねぇ」


 ウォルフレッドの言葉をゲルヴィスが継ぐ。


「念のため、確認しておいた方がよさそうだな。唾棄だきすべき愚帝だったが……。まだ貴族どもの間に影響力は色濃く残っておる。今さら、新たな隠し子が出てきたところで、そうそうわたしの皇位を脅かすとは思えんが……。『天哮の儀』を妨害されてはかなわん」


 ウォルフレッドが忌々いまいましげに吐き捨てる。即座に元公爵が応じた。


「『天哮の儀』に先立ち、ベラレス家が陛下に忠誠をお誓い申しあげたことを、貴族達に広めておきまする。わずかなりとも、よからぬことを企む者への牽制けんせいになるかと……。それと」


 公爵が侍女の一人が持ってきた宝石で飾られた金の小箱を、恭しくテーブルの上に置く。


「ソシアがこれまでに作った『乙女の涙』でございます。何かのお役に立つのではないかと……。どうぞ、ソシアと共にお納めくださいませ」


 元公爵の言葉と同時に、ソシアが深くこうべを垂れる。


「このように年をとった身で恐縮でございますが……。トリンティアは『乙女の涙』の作り方も知らぬことと思います。トリンティアの教育係としてでかまいません。どうか、お側に置いてくださいませ」


 ソシアの言葉に、きゅぅっと心臓が痛くなる。


 年老いたなど、とんでもない。確かに、ソシアはウォルフレッドの母親ほどの年齢だが、手入れされた肌は美しく、まろやかな身体は女性として十分に魅力的だ。


 みすぼらしいトリンティアなどより、ずっと。


 母の教育係であったソシアに、『花の乙女』の心得を教えてもらえるなんて、この上ない幸運だ。『乙女の涙』を作れるようになったら、トリンティアとて、もう少しウォルフレッドのそばにいられるかもしれない。


「『乙女の涙』はありがたくいただこう。だが……。ソシアは側に置くつもりはない」


 ウォルフレッドの言葉に、耳を疑う。が、すぐに納得した。


 『乙女の涙』まで手に入った今、トリンティアはますます不要だ。イレーヌだっている。すぐにクビにする者に、教育係など必要であるはずがない。


「ソシアがベラレス家に保護されていると知る者は?」


 ウォルフレッドの問いに、元公爵が即答する。


「限られた者しか知りませぬ。前皇帝陛下が崩御なさった時、幸運にも『花の乙女』を得られた者達は、せっかく手にしたものを奪われまいと、ひた隠しにしておりましたから……」


「そうか。では、今しばらくこのまま保護を頼む」

 ウォルフレッドの唇が、自嘲に歪む。


「わたしの腕は二本しかないのでな。……限りがあるのだ」


「……。かしこまりました」


 元公爵が何か言いかけ……。途中で言葉を飲み込んで、恭しく一礼する。


「わたくしごときが陛下のご判断に口出ししては不敬というもの。ですが……。どうか、お気をつけくださいませ」


「うむ。思いがけず長居してしまったな。だが、よい茶会であった。礼を言う」


「とんでもないことでございます。お礼を申し上げるべきはわたくしどもでございます。陛下のご厚情には、いくら感謝しても足りませぬ。そのような陛下にお渡しできるのが『乙女の涙』だけというのは、心苦しい限りでございますが……」


「よい、気にするな」


 恐縮しきりの元公爵に、鷹揚おうようにかぶりを振ったウォルフレッドが、ふと思いついたように告げる。


「では、もう一つだけもらおうか」


「何でございましょうか? わたくしどもにご用意できるものでしたら、何なりと」


 ほんの一瞬、緊張を走らせた元公爵が、見事に動揺を隠して、恭しく申し出る。


 ウォルフレッドの端正な面輪に、珍しく悪戯いたずらっぽい笑みが浮かんだ。


「では、テーブルに残っているパイの残りをもらおう。話に夢中になるあまり、ほとんど手をつけられなかったのでな。わたしの『花』はことのほか、甘いものが好きなのだ。土産を喜ぶことだろう」



   ◇  ◇  ◇



「も、申し訳ございません。私のせいで、お帰りが遅くなってしまいまして……」


 帰りの馬車に乗るなり、トリンティアは深く頭を下げてウォルフレッドに詫びた。


 小さな窓の外に見える空には、宵闇が迫りつつある。

 深い森に囲まれたここでは、沈みゆく夕陽は見えないが、頭上には燃えるように紅い雲が浮かんでいた。


 どこか血を連想させる禍々まがまがしい色に、潮が満ちるように不安が押し寄せる。


 ソシアに告げられた己の出自を受け止め切れていないせいかもしれない。まさか、トリンティアが前皇帝の血を引いているだなんて。


「お前のせいではなかろう。今日の茶会の内容は、わたしも全く予想だにしていなかった」


 答えるウォルフレッドの表情はひどく固い。そこには、警戒していたベラレス公爵を味方につけられた喜びは、全くうかがえなかった。


 トリンティアが前皇帝の血を引いているとわかったせいで、ウォルフレッドに新たな迷惑をかけてしまうのだろうか。


 政治のことを知らぬトリンティアには、自分の中に流れる血がどんな影響を及ぼすのか、全く予想がつかない。


 だが、前皇帝の皇子達を廃し、皇位に登り詰めたウォルフレッドにとって、前皇帝の血を引く娘など、邪魔者以外の何物でもないだろう。


 イレーヌにソシア、二人も『花の乙女』が献上された今、トリンティアがウォルフレッドの側にはべる理由は、芥子粒ほども、ない。


(王城に戻ったら……。きっと、クビを言い渡されるんだ……)


 揺れる馬車の中で、トリンティアは胸の痛みにこぼれそうになる涙をこらえる。と。


「離れるなと言っただろう?」


 隣に座るウォルフレッドに、ぐいっと引き寄せられる。


 ふわりと麝香じゃこうの香りが漂った。

 いつもは胸を轟かせる甘やかな香りが、今はひどく苦く、心を締めつける。


「はい……」


 トリンティアは素直にウォルフレッドに身を寄せた。


 永遠に王城につかなければいいのに。

 愚かな願いだとわかっていても、そう思わずにはいられない。


「……お前が無事に成長できたのは」


 ふと、ウォルフレッドが車輪の音にまぎれそうなほどの低い呟きを洩らす。


「銀狼の血ゆえかもしれぬな。『花の乙女』の資質が女にしか現れぬように、銀狼の力は皇族の男にしか発現せぬが……。銀狼の血を引く者は、常人よりも身体が丈夫だ」


「え……?」


 言われてみれば、少しは心当たりがある。


 サディウム伯爵は、幼いトリンティアを殴る時でも、一切、容赦しなかった。命の危険を感じたことも、一度や二度ではない。


 けれども……。痛みにうめき、眠れぬ夜を過ごしたことは何度もあるが、れたり足をくじいたりはしても、幸い、骨が折れたことはなかった。もしそうなって動けなくなっていたら、トリンティアは食事を与えられず、とうの昔に餓死していただろう。


「だが、女性の場合、あくまでも常人よりは、という程度だ。傷つかぬというわけではない。気をつけろ」


「は、はい……っ」

 厳しい声に、こくこく頷く。


 脳裏に甦るのは、初めてウォルフレッドの寝台で眠った日に見た、傷だらけの身体だ。


 銀狼の血を引きながら、あれほどの傷を負うなんて、ウォルフレッドは、どれほど厳しい戦いをくぐり抜けてきたのだろう。


 と、不意に。


「っ!」

 ウォルフレッドが鋭く息を飲む。


 同時に、森全体が動いたかのように、ざわりと気配がうごめいた。


 まるで、馬車ごとし潰すかのように、不可視の殺意がふくれ上がり――、


「トリンティア!」

 ウォルフレッドがぐいっとトリンティアを座席に押し倒す。


 窓硝子まどがらすが割れる高い音が鳴り響き。


 トリンティアに覆いかぶさったウォルフレッドの肩に、一本の矢が突き刺さった。


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