52 母が授けてくれた名前


 ソシアの言葉に息を飲んだのは、ウォルフレッドか、全員か。


「ティエラが前皇帝陛下に想いを寄せていたかと問われたら……。おそらく、寄せてはいなかったでしょう。陛下のお召しがあるたびに、泣きはらした顔で帰ってきていましたから。けれど……。両親を喪い、孤児になりかけたところで偶然、資質を見出され、『花の乙女』となったあの子にとっては、身籠った命は、ようやく取り戻せた『家族』だったのでしょう……」


 ほんの一瞬、切なげなまなざしをトリンティアに向けたソシアが、再び静かに語り出す。


「ティエラはもちろん、生まれた子がどうなるのか、知っておりました。おなかが大きくなるにつれ、思いつめた顔をするようになり……。臨月も間近に迫った頃、ティエラは身の回りの物と、前皇帝陛下より寵愛の証として与えられたブローチを持って、ある夜、忽然こつぜんと神殿から姿を消しました」


 ソシアが何かをこらえるように深くうつむく。膝の上で揃えられた手は、白く骨が浮かび上がるほど、固く握り込まれていた。


「ティエラが出奔しゅっぽんしようとしていることに、わたくしは薄々気づいておりました。ですが……。我が子が半々の確率で殺されるとわかっていて、ティエラを留めることは……。わたくしには、どうしてもできませんでした……っ! ですから」


 血を吐くように告げ、面輪を上げたソシアが、濡れた瞳で真っ直ぐにトリンティアを見つめる。


「養女にした娘に『花の乙女』の資質があるかどうか確かめてほしいと請われてサディウム領に赴いた時……。ティエラに生き写しのトリンティアを見た瞬間、わたくしはティエラが冥府から責めているのだとしか思えませんでした。ティエラが命を懸けて生んだ幼い娘にまで、同じ『花の乙女』の苦しみを味わわせるのかと……」


「だから、サディウム伯爵におっしゃったんですか? 「この子には、『花の乙女』の資質はありません」と……」


 気がついた時には、勝手に唇から言葉がこぼれ出していた。


 鋭く息を飲んだソシアの顔が蒼白になる。


 その表情を見た途端、トリンティア自身が封じていた記憶が、すべてよみがえる。


 そうだ。あの時も同じ、蒼白な顔をしていた。

 まるで、幽霊でも見たかのように幼いトリンティアを見つめ、柔らかな手でトリンティアの小さな両手を握って告げたのだ。


「サディウム伯爵。残念ながら、この子には『花の乙女』の資質はございません。失礼ながら……。この子の亡くなった母親は、本当に『花の乙女』だったのですか? 今の王城の風紀は、麻のように乱れていると聞いております。陛下にならい、貴族達が見目のよい侍女達に見境なく手を出されていると……。この子の母親は、そうした侍女の一人だったのでは?」


 わざわざ、煩雑はんざつな手続きを踏んで養女にし、金をかけて育ててきた娘が『花の乙女』でないと知ったサディウム伯爵は、烈火のごとく怒り狂った。


 伯爵はサディウム家から『花の乙女』を出し、皇帝の寵愛を得ることで、宮廷での発言力をさらに増そうと狙っていたらしい。


 野望が水泡に帰した伯爵の怒りはすさまじかった。


 それまで、エリティーゼと本当の姉妹のように育てられていたトリンティアは、たった一夜ですべてを失った。


 お前みたいな役立たずに大金を投じたのかと、なじられ、折檻せっかんされ……。


 自分の身に起こったことを信じたくなくて、幼いトリンティアは記憶を封じた。


 サディウム伯爵に虐げられた日々を思い出すだけで、身体が震えて止まらなくなる。恐怖に耐えようと膝の上で両手を握りしめた途端。


 不意に、あたたかく大きな手のひらがトリンティアの両手を包み込む。


 うつむいていた顔を上げた途端、真っ直ぐにこちらを見つめるウォルフレッドと目が合った。


 励ますように小さく頷いたウォルフレッドが、ソシアを振り返る。


「ソシアとやら、一つ聞きたい。トリンティアが資質を知られてなかったがゆえに、『花の乙女』を手に入れられたわたしが言える義理でないのは、重々承知の上だ。それでも……。お前は、少しでも考えなかったのか? 資質はないと断じられたトリンティアが、サディウム伯爵にどのような目に遭わされるか。お前の言葉ゆえに、トリンティアは十年以上もの間、サディウム伯爵に虐げられていたのだぞ!?」


 刃のように振るわれた断罪の言葉に、ただでさえ蒼白だったソシアの顔が、さらに白く、凍りつく。


 トリンティアはソシアが気を失うのではないかと、心配でたまらなくなる。


「わたくしが去った後、トリンティアが辛い目に遭うだろうことは、わかっておりました。いくら詫びても足りぬと承知しております。ですが……っ」


 ソシアの声が、今にも泣きそうにひび割れる。


「トリンティアが実の父に蹂躙じゅうりんされるのを、どうして見過ごせましょう!? あの子が……っ、ティエラがすべてを捨ててまで守ろうとした娘ですのに……っ」


 こらえきれなくなった涙が、ソシアの瞳からはらはらとこぼれ落ちる。


 ウォルフレッドが泥水を飲んだように押し黙った。今にも唾棄だきしたような横顔が語るのは……。


 前皇帝であったなら、たとえ実の娘であろうと、己の興を満たすためだけに躊躇ためらいなく手折ったであろうという嫌悪感だ。


 重苦しい沈黙の中、ソシアの懺悔ざんげだけが続く。


「今さら、何を言っても言い訳にしかならぬと存じておりまます。わたくしも、サディウム伯爵に申し出たのです。いらぬ娘だというのでしたら、神殿で引き取って下女として育てましょう、と。ですが、サディウム伯爵は、ごみを捨てるためだけに、なぜ煩雑な養子縁組の解消をしなければならぬと、聞く耳を持ってくださらず……」


 耳の奥で、サディウム伯爵の声が甦る。


「役立たず! お前の顔を見るだけで腹立たしい! お前など、母親ともども見捨てておけばよかった!」


 何度、憎しみの言葉を浴びせられ、蹴り飛ばされたことだろう。伯爵のことを思い出すだけで、我知らず身体が震える。


 トリンティアがあんな目に遭った原因を作ったのが、たった一度の邂逅の後も、ずっと憧れ続けていたソシアだったなんて。


「ごめんなさい……っ。いくら謝っても詫び足りないとわかっているけれど、それでも……っ」


 はらはらと涙を流しながら謝り続けるソシアに、トリンティアはおずおずと呼びかけた。


「ソシア様……」


 途端、ソシアが息を飲んで顔を上げる。


 見ている者の心まで痛くなるほどの自責の念に囚われた瞳と視線を合わせ、トリンティアは小さく微笑んだ。


「お願いですから、もうご自分を責めないでくださいませ。ソシア様が、母の遺志を継いで私を守ろうとしてくださった……。そのことが知れただけで、私はもう、十分なのですから」


 ソシアが信じられぬ言葉を聞いたかのように、目をみはる。

 視線を逸らすことなく、トリンティアはもう一度微笑んだ。


 サディウム伯爵に虐げられた十年間が辛くなかったと言えば、嘘になる。


 どうしてこんな辛い目にばかり遭うのだろうと、毎日、嘆いてばかりいた。けれど。


「そ、その、今の今まで、ソシア様とお話したことを忘れてしまっていたんですけれど……。でも」


 顔を上げ、トリンティアはきっぱりと告げる。


「ソシア様があの時、私に資質がないと言ってくださったおかげで、数奇な巡り会わせの末、私は今、こうして陛下のお側にお仕えできているのです。ずっと役立たずとさげすまれてきた私が、素晴らしい陛下にお仕えできるきっかけを作ってくださった。それだけで、私は感謝しているのです」


 もしあの時、ソシアがサディウム伯爵に真実を告げていれば、トリンティアはきっと、ウォルフレッドに出逢えていなかった。


 泣きたくなるほどの恋心も幸せも知らず……。見知らぬ皇族の誰かに、ただ苦痛を癒すための花として、踏みにじられていた。


 トリンティアは自分の手を包むウォルフレッドの指先を、きゅっと握り返す。


 決して口にできぬ秘めた想いを、伝える代わりに。


 もし花を散らされるなら、この方と想い定めた人が、いい。


「母がつけてくれたこの名前の意味は、『癒し』なのだと、陛下に教えていただきました」


 不意に話題を変えたトリンティアに、ソシアが頬を涙で濡らしたまま、ぎこちなく頷く。


「ええ……。あなたを身籠ったとわかった時から、ティエラがずっと言っていたの。女の子が生まれたら、名前はトリンティアにするのだと……。この子が、私の心を癒してくれたから、と……。ティエラに礼儀作法や『花の乙女』にふさわしい教養を教えたのは、教育係だったわたくしなのよ……」


 遠い昔を懐かしむように、ソシアがわずかに表情を緩める。

 トリンティアはソシアに視線を合わせて微笑んだ。


「きっと、母様は……。ソシア様のお心も癒したくて、私にトリンティアと名づけてくれたのだと……。そう思います。ソシア様はずっとずっと、長い間苦しまれてきたのでしょう? もう、癒されてよいのだと……。母様もそれを願っているんだと、思います」


 うまく言葉にできない自分がもどかしい。たどたどしくも、できる限り、きっぱりと告げる。


 見開かれたソシアの目から、新たな涙がこぼれ落ちた。


「わたくしを……。許してくれるというの?」


「許すも何も……。先ほど申し上げた通り、私はソシア様に感謝しているのです。最初から、恨んでなどおりません」


 迷いなく、断言する。


 ソシアが告げた言葉で、自分の境遇が変わったと覚えていたのなら、もしかしたら恨んでいたかもしれない。だが、それは全て仮定の話だ。


 今のトリンティアの心の中には、ソシアへの恨みや憎しみなど、一欠片もない。


「……本当に、お前はそれでよいのか?」


 ウォルフレッドが低い声で口を挟む。「はい」と、トリンティアははっきりと頷いた。


「もちろんです。私はソシア様に、これ以上、苦しんでいただきたくありません」


「ありがとう……っ、ありがとうございます……っ」


 ソシアがはらはらと涙をこぼす。

 だが、その表情はどこか晴れやかで、トリンティアはほっとして息を吐き出す。


 まだどこか納得できないところがあるのか、不機嫌そうな声を上げたのはウォルフレッドだ。


「お前がそう言うのなら構わんが……。本当に、お人好しすぎる」


「も、申し訳ございませんっ」

 思わず身を縮める。


「で、ですが、噓偽りのない気持ちなのです。その、それと……」


「何だ?」

 低い声で促すウォルフレッドに、丁寧に頭を下げる。


「私のことで怒ってくださり、ありがとうございました……」


 単に、義憤に駆られただけに違いない。


 それでも、トリンティアには、ウォルフレッドが怒ってくれたことが、何より嬉しかった。


 トリンティアの言葉に、ウォルフレッドが目をみはる。かと思うと、ふい、と顔を背けられた。


「当然だろう。お前は、わたしの『花の乙女』なのだから」


 怒ったような声と同時に、手を包んでいた指先がほどかれる。


 離れてゆくあたたかさに、ソシアに真実を告げられた時より鋭く、胸の奥がつきんと痛む。

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