51 わたしは一度も『花』の名前を呼んでおらぬぞ?
「トリンティア、だと?」
女性の呟きに、真っ先に過敏に反応したのはウォルフレッドだった。碧い瞳が警戒に
「なぜ、トリンティアの名を知っておる? わたしはここへ来てから、一度もわたしの『花』の名を呼んでおらぬぞ? お前は何者だ?」
ウォルフレッドの
「失礼いたしました。わたくしは『花の乙女』のソシアと申します。陛下におかれましては――」
「
「かしこまりました……」
女性が立ち上がり、歩んでくる。その姿を間近で見て。
「お姫、様……?」
トリンティアは、まだ幼い頃にサディウム領を訪れた『花の乙女』が彼女だと、ようやく気がついた。
十数年が経って、記憶にある姿よりも年をとっているが、間違いない。
トリンティアが思わず洩らした呟きに、女性が柔らかく微笑む。
「初めて会った時にも、同じように「お姫様」と呼んでくれたわね」
「面識があるのか?」
ウォルフレッドが振り返る。トリンティアは慌ててこくりと頷いた。
「昔……。まだ私が幼い頃に、一度だけ、『花の乙女』様がサディウム領に来られたことがあったのです。その時に……」
「まさか、あなたと『花の乙女』同士として再会することになるなんて……」
ソシアが喜んでいるのか哀しんでいるのか、判断がつかない表情で呟く。
使用人が運んできた椅子に、優雅な所作で腰かけたソシアが、ウォルフレッドに向き直った。
「陛下……。少し長い話におつきあい願えますでしょうか? まさか、トリンティアと会うとは思わず……。わたくしも混乱しているのです」
「……よかろう。話せ」
ちらりとトリンティアに視線を走らせたウォルフレッドが、
「ありがとうございます」
丁寧に一礼したソシアの美しい面輪には、鎮痛な表情が浮かんでいた。
「いったい、何からお話すればよいのでしょうか……。『花の乙女』の資質があるかどうかを判別できるのは、銀狼の血を受け継ぐ皇族の方々か、同じ『花の乙女』だけであることを、陛下はもちろんご存じでいらっしゃいますね?」
ソシアの問いに、ウォルフレッドが簡潔に頷く。
「銀狼の血は代々の皇族の方に受け継がれますが、『花の乙女』の資質は、必ずしも母から娘に受け継がれるわけではございません。確率としては高いようでございますが……。しかも、資質を持つ者はごくわずか。それゆえ、わたくし達『花の乙女』は、数年に一度、各領を巡って資質を持つ娘達を探し出し、王都の神殿にて教育を施します。わたくしも、そのように
「っ!?」
トリンティアは息を飲んでソシアを見つめる。
生まれて初めて知った、母の名前。
絞り出した声は、みっともないほどにかすれ、震えていた。
「わ、私の母様は……。『花の乙女』だったのですか……!?」
「ええ」
ソシアが束の間、憂いを忘れたような穏やかな笑顔で頷く。
「神殿に引き取られた少女達は、年上の『花の乙女』達が教育係となって育てるの。ティエラは、わたくしが教育係だったのよ」
懐かしむような、柔らかな笑顔。
荒々しい声で割って入ったのはウォルフレッドだった。
「待て! トリンティアの母親も『花の乙女』だったと!? トリンティアは両親の名すら知らぬと言っていた。しかも、自分に『花の乙女』の資質があることすら知らず……っ! 母親が『花の乙女』だとしたら、父親は――、っ!」
黙っていられぬとばかりに口を挟んだウォルフレッドが、途中で何かに思い至ったのか、息を飲んで口をつぐむ。ゲルヴィス達も、はっとしたように息を飲んだ。
が、トリンティアはどういうことなのかわからない。
ソシアの面輪が、再び深い哀しみに沈む。告げた声は、
「王弟殿下のご一家にお仕えしていた『花の乙女』は、お一人だけでございましたね。陛下は、『乙女の涙』で苦痛を抑えてらしたと……。そう、うかがっております。ですが……。陛下のような御方は、本当に
父親の話が出ても、ウォルフレッドは何も答えない。
ただ、端正な面輪が治りきらぬ傷口にふれられたかのように、痛みに歪む。
「銀狼の力を発現なさるのは、皇族の男性ばかり……。そして、それを癒すのが『花の乙女』となれば……。ご想像がつきますでしょう?」
苦くにがく……。今にも泣き出すかと思うほど、ソシアの声が震える。
「
しん、と
答える者は、誰もいない。
最初から、答えなど期待していなかったように、ソシアが言を継いだ。
「もし、生まれた子が女の子であれば、『花の乙女』の資質を受け継いだ子は、次代の『花の乙女』として、神殿で育てられます。資質を受け継がなかった子は、男子禁制の神殿の下女として……。ですが、もし生まれた子が男子だった場合は」
ふ、とソシアの言葉が途切れる。
恐ろしいほどの沈黙が座を満たす。
トリンティアは身体がかたかたと震え出すのを抑えられなかった。
まるで、深い闇の
両親のことを知りたいと思う気持ちを、恐怖が上回る。
聞きたくない。今すぐ両耳をふさいで、ここから逃げ出したい。
だが、退路を断つように、ソシアの低く静かな声が紡がれる。
「男子が生まれた場合は、後々の皇位争いの火種にならぬよう、生まれた直後に殺されるのです」
そ、とソシアが白いドレスに包まれた腹部を両手で押さえる。
「かつて、わたくしも一度、生まれたばかりの我が子を
紡がれた声は、無明の闇より深く、
あらゆる負の感情が詰め込まれ、返って
その声が、淡々と告げる。
「……ティエラは、前皇帝陛下にお仕えしておりました」
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