50 おぬしの願いは承知した


 しん、とテーブルに重い沈黙が落ちる。


 そよ風が紅茶とシナモンの香りをくゆらすが、心を慰めるにはあまりに無力だ。


 午後の光は世界を白く空虚に染め上げ、まるで、白昼夢の中に迷い込んだような心地がする。


 ベラレス公爵とネイビスは、彫像と化したかのように、頭を下げたままだ。と。


「ベラレス公爵。おぬしの願いはわかった」

 ウォルフレッドの静かな声が、刃のように沈黙を穿うがつ。


「おぬしの望み通り、今ここに、銀狼国皇帝の名において、おぬしの公爵位退任と、ネイビスの新公爵就任を認めよう。正式な書類はおって交付するが、ネイビス、銀狼国のため、大いに手腕を振るってくれることを期待するぞ」


「あ、ありがとうございます! 誠心誠意、お仕えさせていただきます!」


 ぱっと顔を上げ、喜色に満ちた声を上げたネイビスが、再び深く頭を下げる。


「そして、ベラレス公爵……。いや、今やベラレス公爵だな。おぬしの処遇だが――」


「どのような罰であろうとも、謹んでお受けいたします」

 元ベラレス公爵が、粛々しゅくしゅくと応じる。


「見事な心映えだな」


 ウォルフレッドが薄く笑む。それだけで、剃刀かみそりの刃を首に当てられたように、トリンティアの背がそそけ立つ。


 『冷酷皇帝』への恐怖が胸に湧きあがる。


 貴族達に反逆心を起こさせぬように演じてきた仮の姿だと知っている。けれど、ウォルフレッドが今まで何人もの貴族達を葬ってきたのは、まぎれもない事実だ。


 冷徹なウォルフレッドは、必要とあらばためらいもなく元公爵の首を斬るだろう。


 トリンティアにとっては、今日会ったばかりの相手にすぎない。けれども、一緒にお茶を飲み、パイを分け合った相手が、首を斬られるかもしれない。


 そう考えるだけで、震えが止まらなくなる。ぎゅっと膝の上で握りしめた両手は、血の気が失せ、氷のように冷たい。と。


「だが」

 ウォルフレッドが淡々と告げる。


「わたしは、無力な老人の首を斬っておごる愚か者になる気はない」


「っ!?」


 思わず、といった様子で、元公爵が顔を上げる。その目は信じられぬと言いたげに見開かれていた。


「で、ですが……っ! わたくしを生き長らえさせれば、口さがない者達が噂いたしましょう。陛下はベラレス家の後ろ盾を得るために、忖度そんたくしたのだと。そのような噂を流すわけにはまいりません! ネイビスには、わたくしがどのような目に遭おうとも、決して陛下をお恨みせず、粉骨砕身してお仕えせよと、重々言い聞かせております! どうぞ、陛下の今後の治世のために、誰の目にもベラレス公爵家を従えたとわかるよう、わたくしの首を――」


おごるな」


 刃のように鋭い声が、元公爵の口を縫いとめる。


「わたしは、誰の指図も受けぬ。それとも、おぬしは前皇帝のように、わたしも意のままに動かす気か?」


「滅相もございません!」


 元公爵が血の気の失せた顔でかぶりを振る。


「そもそも、おぬしはもう、ベラレス公爵ではない。先ほど、家督を譲ったのでな。ベラレス公爵だ。もはや、何の権限も持たぬ老人の首を斬ったところで、何の意味がある? わたしは無駄なことは好まぬ」


 きっぱりと告げる声音は冷淡そのものだ。だが。


「まことに……。まことにありがとうございます……っ」


 元公爵が深々と頭を下げる。その声は、隠しきれぬ湿しめり気を帯びていた。


「この身に罪を背負って、断罪される覚悟で、今日まで恥を忍んで当主の座にしがみついておりましたものを……。まさか、このようなご厚情をいただけるとは……」


 元公爵の言葉に、トリンティアも詰めていた息をほっと吐き出す。


 ウォルフレッドが元公爵の血で手を汚すことにならなくてよかったと、心の底から安堵する。


「ああ、言っておくが」

 ウォルフレッドが端正な面輪に薄く笑みを乗せる。


「現在の王城は人手不足なのだ。ゼンクール公爵も、まだわたしに忠誠を誓う気がないようだからな。退位したからといって、のんびり隠居できると思うな。ネイビスと共に、銀狼国のために力を尽くせ」


「もちろんでございます! 陛下の御為に、この身を尽くす所存でございます!」


 深く頭を下げたまま、元公爵が老人とは思えぬはりのある声で告げる。


「しかし……。わたくしばかりが恩恵を受けるわけにはいきませぬ」


 ゆっくりと顔を上げた元公爵が、毅然きぜんとした声で告げる。


「実は……。前皇帝が崩御なされた際に、一人だけ、『花の乙女』を保護することができたのです。陛下のお心を見極めるまで、お引き合わせする気はなかったのでございますが……」


 元公爵の言葉に、トリンティアの心臓が轟く。


 ベラレス公爵家で保護されていた『花の乙女』なら、ウォルフレッドの側にはべるのに、何の支障もないはずだ。


 まだ夕暮れには少し間があるというのに、目の前がくらく閉ざされてゆく心地がした。背中ににじんだ冷や汗が、心まで凍りつかせてゆく。


「『花の乙女』というには、とうが立っているのですが……。陛下さえよろしければ、お側に侍ることも可能でございましょう」


 元公爵が屋敷を振り向く。それに合わせて、中庭に通じる扉がゆっくりと開けられた。


 中庭に出てきたのは、『花の乙女』であることを示す古式ゆかしい純白のドレスを纏った四十代半ばと思われる女性だった。


 ああ、とトリンティアは心の中で悲鳴を上げる。


 優雅な所作。年齢がそのまま美しさとして昇華した優しげな顔立ち。女性らしいまろやかさな肢体……。


 すべてが、トリンティアにはないものだ。


 ついに、ウォルフレッドの側を離れなければならぬ時が来たのだと悟った心が、血の涙を流す。


 だが、ここで取り乱してウォルフレッドに迷惑をかけるような真似は決してできない。

 トリンティアは跡が残るのもいとわず固く唇を噛みしめる。


 と、しずしずと歩む女性が、こちらを向いた。トリンティア達を見つめた目が驚愕に見開かれ。


「トリン、ティア……?」


 紅をひいた唇から、信じられぬと言いたげなかすれた呟きがこぼれ出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る