49 戯けたことを申すその口を、引き裂いてやってもよいのだぞ?


「っ!?」

 トリンティアは予想だにしていなかった問いに息を飲む。


「ふざけるな!」


 どんっ、とテーブルに拳を打ちつけて怒声を上げたのはウォルフレッドだ。


「なぜおぬしにそのようなことを教えねばならん!? たわけたことを申すなら、その口を裂いてやってもよいのだぞ?」


 雷のように放たれた怒気に、トリンティアは身を震わせる。もしトリンティアに向けて放たれたものだったら、泣き震えながら詫びていただろう。


 だが、ベラレス公爵から返ってきたのは、決然とした声だった。


「お言葉でございますが。たとえねやのことであろうとも、それが皇帝陛下のことであるならば、我ら臣下は知っておくべき事柄でございます。前皇帝陛下が『花の乙女』におぼれ、まつりごとをどれほどないがしろにしていたか。知らぬ陛下ではございますまい。なればこそ、現皇帝陛下がどのように『花の乙女』に接しておられるか――。確かめたいと考えるのは、当然のことでございましょう?」


「前皇帝が堕ちてゆくのを、何もせず放っておき、まつりごとを意のままにして甘い汁を吸っていたおぬしが、何を言う?」


 はっ、とウォルフレッドが万年雪よりも冷ややかな嘲笑を吐き捨てる。常に泰然としていた公爵の表情が、わずかに揺れた。


「陛下がわたくしのとがを問いたいとおっしゃるのでしたら、後でいくらでもうかがいましょう。ですが」


 公爵が真正面からウォルフレッドを見据える。

 小柄な老人のどこからと驚くような気迫が、公爵から立ち昇る。


「今、わたくしが問うている相手は、『花の乙女』でございます。陛下は口出しなさらないと、先ほど了承なさったはずですが?」


 公爵の指摘に、ウォルフレッドの面輪が苦々しげに歪む。だが、それ以上は何も言わずに唇を引き結んだ。


 己の言葉を反故にするのはウォルフレッドの矜持きょうじが許さないのだろう。


 全員の視線がトリンティアに集中する。


 トリンティアは自分の身を守るように両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。そうしなくては、ばくばくと鳴る心臓が、今にも身体を突き破って飛び出しそうで。


 黙したままのトリンティアをどう受け取ったのか、公爵が穏やかな声を出す。


「正直に答えてくれてかまいませんよ。あなたがどのような答えを口にしようと、後で陛下に罰させはせぬと、このわたくしがお約束しましょう。……よろしいですかな?」


「好きにすればよかろう」


 憮然ぶぜんと答えたウォルフレッドがトリンティアを振り返り、顎をしゃくる。

 碧い瞳は、「どうとでもお前の好きに言え」と、無言で告げていた。


 そのまなざしに勇気づけられ、トリンティアは震える唇を引き結ぶと、真っ直ぐにベラレス公爵を見つめた。


 お腹に力を入れ、できるだけはっきりした声を出す。


「公爵様。お尋ねの件でございますが……。確かに、陛下は毎夜、私と共に寝台に入られます。ですが……。それだけです。陛下は私を抱きしめて眠られるだけで、ご寵愛を授けられたことは、一度もございません」


 きっぱりと告げた瞬間、きりで貫かれたように胸が痛む。

 同時に、胸の奥に押し込めていた浅ましい願いに気づく。気づかされてしまう。


 そうだ。自分は――。


 たった一度でよいから、ウォルフレッドに寵を与えてもらいたいのだと。


 ウォルフレッドに恋心を告げる気なんてない。

 そもそも、ウォルフレッドはみすぼらしいトリンティアに、女性としての魅力など、欠片も感じないだろう。


 そんなことは、最初からわかっている。期待など抱くだけ無駄だと。


 けれど。


 『花の乙女』としてでよいから。ただ、ウォルフレッドの痛みを癒すだけの道具としてでかまわないから。


 エリティーゼ以外で初めてトリンティアに優しくしてくれたこの方に、たったひとつ、トリンティアが捧げられる大切なものを受け取ってほしい。


 そうすれば、ウォルフレッドのそばを離れねばならない日が来ても、一夜の想い出を、ずっと抱きしめていられるだろうから。


「まさか……」

「さすがに、そのようなことが……」


 トリンティアの返答がよほど想定外だったのか、ベラレス公爵とネイビスが信じられぬと言わんばかりに、かすれた声をらす。


 嘘だと思われてはたまらないと、トリンティアは身を乗り出した。


「ですから、陛下が『花の乙女』に溺れてまつりごとないがしろにするなど……っ! そんな事態は起こりえません! 陛下は、銀狼の血に苦しまれていても、いつもご公務に励まれている素晴らしい方です! 私の言うことを信じていただけないのでしたら、私が清らかな身かどうか、お確かめ――」


「待て!」

 不意に、ウォルフレッドに乱暴に口をふさがれる。


たわけたことを申すな! そのようなこと、許すはずがなかろう!?」


「で、ですが……っ」


 大きな手のひらにはばまれ、くぐもった声しか出せない。だが、トリンティアはかぶりを振って必死に言い募る。


「私は前皇帝陛下がどのような御方でしたのか、存じ上げません! ですが、陛下がお優しくて素晴らしい方だというのは、お仕えして短いですが、十分に承知しております! だというのに、このようにいわれのない誹謗ひぼうを……っ。『花の乙女』である私がその誤解をとけるのでしたら、どのようなことでもいたします!」


 話すうちに感情が高ぶって、涙があふれそうになる。


 トリンティアがウォルフレッドのためにできることがあるならば、躊躇ためらう理由など、どこにもない。


 だというのに、ベラレス公爵を納得させられぬ自分の無力さが情けない。


 にじんだ視界の向こうで、ウォルフレッドが端正な面輪をしかめた。


 口答えをするなんて、不快に思われただろうか。

 トリンティアが謝罪を紡ぐより早く。


「陛下、『花の乙女』様。数々の無礼をお詫び申しあげます」


 がたたっ、と椅子から転げ落ちるように、ベラレス公爵が平伏する。


 大きなテーブルの向こうのためよく見えないが、自由にならぬ身体を苦労して動かし、額を地面にこすりつけているのがわかった。


「父上!?」


 驚愕の声を上げたネイビスも、父にならって平伏する。


 背を丸め、平伏したまま、公爵が告げる。


「わたくしは、前皇帝陛下の亡霊に囚われるあまり、真実を見抜けぬ愚か者でございました。陛下に数々の疑いのまなざしを向け……。この罪は、どうかわたくしの首にて、償わせてくださいませ」


 予想だにしないベラレス公爵の行動に、思考が止まる。言葉も涙も、驚きのあまり、ひっこんでしまった。


 いったい、どういうことなのだろう。


 ウォルフレッドから聞いていた話では、ベラレス公爵は、一線を退いても隠然たる権力を有する大貴族で、実際に会話を交わした今も、物腰こそ穏やかだが、老獪ろうかいで、ウォルフレッドを挑発するようなことばかり口にして……。


 それもこれもすべて、ウォルフレッドの真意を見極めるためだったというのだろうか。


 混乱のあまり、すがるようにウォルフレッドを見やる。


 トリンティアの口から手を放し、椅子に座り直したウォルフレッドの視線は、真っ直ぐ公爵に注がれている。


 ウォルフレッドが何と答えるのかと見守っていると。


「立て」

 ウォルフレッドが、温度を感じさせぬ声で命じる。


「立って、座り直せ」


「で、ですが……」

 動こうとしない公爵に、ウォルフレッドが苛立った声を上げる。


「わたしは前皇帝のように、他人の言を鵜呑うのみにして罰を与える気はない。己の目で確かめて、判断を下す。おぬしの首が飛ぶかどうかは、事情を聞いてからだ。それとも」


 ウォルフレッドが、く、と唇を吊り上げる。


「おぬしは、わたしを前皇帝のように堕落させたいのか?」


「滅相もございません!」


 即座に否定の声を上げた公爵が、ネイビスに助けられながら椅子に座り直す。


「さて……」

 口火を切ったのはウォルフレッドだ。


「どうやら、我々は疑心暗鬼になるあまり、お互いに無用な腹の探り合いをしていたようだが?」


「左様でございますね」


 応じた公爵は、先ほどまでの威厳が消え失せ、年相応の弱々しい老人にしか見えなかった。


 まるで、平伏していたわずかな間に、十年も年をとったかのようだ。


「陛下……。少しだけ、昔話をさせていただくお許しをいただけませぬか? 無力な老人の懺悔ざんげを……」


 先ほど、父親の話題を出された時の苛烈かれつな反応を思い出し、トリンティアは思わずウォルフレッドを盗み見る。


 が、ウォルフレッドの反応は淡々としたものだった。


「よかろう。話せ」


「ありがとうございます」

 恭しく頭を下げたベラレス公爵が、うつむきがちの姿勢のまま話し出す。


「わたくしは……。前皇帝陛下のお側近くにお仕えしながら、あの方の狂態を、お止めすることが叶いませんでした……」


 己の無力を嘆くかのように、公爵が深いふかい息を吐く。


「元々、皇太子であらせられた頃より、前皇帝陛下は、易きに流れやすい気質でございましたが、皇位につかれてからは、さらに顕著けんちょになられ、『花の乙女』に溺れ、公務は見向きもされなくなりました……。わたくしも何度も、それとなく忠言申しあげました。ですが……」


「ああ。変わらなかったな。あの愚か者は」


 泥水よりも苦く、万年雪よりも冷ややかな声で、ウォルフレッドが応じる。


「父上も、王弟として、何度も前皇帝をいさめられた。……が、その代償として返ってきたのは、敵意と憎悪だ。挙句の果てには、周りの貴族達から疑心を吹き込まれ、皇位を狙っているのだろうと、あらぬ疑いをかけ……」


 ウォルフレッドの声に、抑えきれぬ怒気が混ざる。


「わたしは、裏で糸を引いているのは、側近くに仕えるおぬしか、ゼンクール公爵だと思っていたのだがな?」


 公爵を見据えた碧い瞳には、偽りは許さぬと言いたげな厳しい光が宿っていた。


「存じあげておりました」

 公爵が静かに頷く。


「ですが、その疑いを晴らそうとしなかったのも確かでございます。もし、王弟殿下を庇いだてすれば、前陛下は、迷わずわたくしを、まつりごとの中枢から遠ざけられていたでしょう。あの方には、自分と異なる意見の者を受け入れるだけの度量がおありでなかった。奸臣かんしんの言に踊らされ、興味のあることといえば、美食と美女のみ。苦言を呈せば、たとえ王弟殿下であろうとも、すぐに閑職に追いやられる……。少しずつ腐ってゆく王城の中で、銀狼国を支えるためには、面従腹背で陛下のお側近くにお仕えするしか、方法はございませんでした……。いいえ」


 公爵が、力なくかぶりを振る。


「わたくしは、銀狼国を守るということを言い訳に、前陛下に忠言する勇気がなかっただけなのございます。わたくしが見て見ぬふりをしていた陰で、多くの貴族達が腐り、何人の『花の乙女』が、陛下の狂気によって散っていったか、知っていたというのに……」


 トリンティアは、公爵の深いしわが刻まれた顔に、涙の幻を見た気がした。公爵の心の内の慟哭どうこくが伝わってくるようで、胸が痛くなる。


「ですが、嘆きの日々も今日で終わりでございます」


 ウォルフレッドを見上げたベラレス公爵の顔には、清々しい笑みが浮かんでいた。


「陛下が銀狼国の未来をゆだねられる御方とわかった今、わたくしが最期のお役目を果たせる日がやってまいりました。わたくしがベラレス家の当主におさまっていたのは、この日のため。陛下、わたくしはこの国に残った腐ったうみの一つでございます。どうぞ、わたくしをちゅうして、陛下の威をお高めくださいませ。わたくしを斬首すれば、いまだ陛下にまつろわぬゼンクール公爵も、心穏やかではいられますまい。そして、叶うならばネイビスを側近としてお加えいただければと……。それが、女々しくも生き延びた老いぼれの、最期の願いでございます」


 深くふかく、テーブルに額をこすりつけるようにして、ベラレス公爵が懇願した。

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