48 ……ずいぶんと『花の乙女』を大切にしていらっしゃるのですな


 トリンティアは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、息を吸おうとするが……。


 こんなに苦しいのに、うまく息が吸えない。は、は、と音にもならぬかすれた呼気が洩れるだけだ。と。


「陛下」


 とん、とゲルヴィスがウォルフレッドを軽くひじで小突く。金属の鎧が泣くような軋みを立てた。


 ウォルフレッドが小さく息を飲む。同時に、辺りを凍らせていた圧が消えた。


 トリンティアはようやく肺の中に入ってきた空気にあえぐ。


 見苦しい姿を見せてはいけないとわかっているのに、動悸が治まらない。ばくばくと鳴る心臓は、まるで耳元で叫んでいるかのようだ。


 絹のドレスだということも忘れ、胸元をぎゅっと掴んで浅い呼吸を繰り返していると。


 不意に、大きくあたたかな手が、優しくトリンティアの背を撫でる。


 詫びるように、いたわるように、不器用に。

 それだけで、喉につかえていたものがほどけるように、呼吸が楽になる。


「……大丈夫か?」


「は、はいっ、大丈夫です。申し訳ございませんでした。ご迷惑を……」


 気遣いに満ちたウォルフレッドの声に大きく頷き、ぺこりと頭を下げる。


 トリンティアはウォルフレッドの父親がどんな人物なのか、まったく知らない。

 前皇帝の弟だったそうだが、ウォルフレッドが皇位についているということは、おそらくすでに世を去っているのだろう。


 生前のウォルフレッドとの関係はまったくわからないが、先ほどの苛烈な反応から察するに、父親のことはウォルフレッドにとって禁句らしい。


 最後にぽん、と背中を軽く叩いたウォルフレッドが、公爵を睨みつける。


「わたしは昔話をしに来たのではない。くだらんことばかり話す気なら、今すぐ辞しても構わんのだぞ?」


 ウォルフレッドの低い声は本気そのものだ。

 が、公爵は動じた様子もなく、深々と頭を下げる。


「失言をお詫びいたします。ですが、今すぐ席を立たれるのは、陛下とゲルヴィス様はともかく、そちらの『花の乙女』のお嬢様には、少々お辛いのでは? まだお顔に血の気が戻ってない様子。せめて紅茶の一杯でも飲まれて、落ち着かれてからのほうがよろしいのではございませんか?」


 自分のことを出され、トリンティアはびくりと肩を震わせる。

 トリンティアのせいで、ウォルフレッドが足止めされるなど、許せる事態ではない。

 だが、セレウスとイルダからは、ウォルフレッドが許しを出さない限り、一言も話すなと厳命されている。


 困り果てたトリンティアは、そっとウォルフレッドの袖を引いた。振り向いたウォルフレッドに、自分は大丈夫だと、小さく首を振って、必死に伝える。


 と、ウォルフレッドの片手が伸びてきた。あたたかな手のひらがそっとトリンティアの頬を包み、親指が輪郭を確かめるように、優しく肌の上をすべる。


「確かに、まだ頬が冷たいな」


 凛々しい眉をひそめてウォルフレッドが呟く。ふるふると首を振って、大丈夫だと伝えようとする。


 ウォルフレッドの手にふれられているだけで、どんどん頬が熱を持ってくるのだから。

 だが、トリンティアの想いは伝わらなかったらしい。

 

 公爵を振り返ったウォルフレッドが、きっぱりと告げる。


「一杯だけだ。もとより、そのつもりだった。一杯だけ喫したら辞する」


「かしこまりました」


 公爵が頷いたのに合わせて、屋敷から侍女達が茶器などを載せた盆を手に、しずしずとやってくる。


 テーブルの真ん中に置かれたのは、まるで黄金のように輝く林檎のパイだった。バターと林檎の香りが、トリンティアのところにまで漂ってくる。


「切り分けるのはゲルヴィス様にお願いしてよろしいでしょうか?」

 ネイビスが恐縮した様子で告げる。


「構わねぇが……。失敗しても文句はなしだぜ? あと、切るのは俺の小刀を使わせてもらう」


 渋い顔をしつつも、予想していたのだろう。ゲルヴィスが小刀を取り出しながら立ち上がる。


 まだ切っていない菓子を出し、客人に切り分けてもらうのは、毒など仕込んでいないという潔白を証明するためなのだと、礼儀作法を習う中でイルダに聞いている。


 ベラレス公爵は、自分がウォルフレッドに信を置かれていないと知っていて、林檎のパイをお茶請けに選んだのだろう。


 初めてイルダに説明を受けた時、トリンティアは恐ろしさに震えずにはいられなかった。


 そんな作法があるということは、貴族達の間では、毒殺の危険が決してまれではないということだ。そして同時に、ウォルフレッドが毒殺の危険と隣り合わせということでもある。


 貴族社会というのは、なんと恐ろしいのだろう。目もくらむほどのきらびやかさの陰には、底なし沼のような闇が横たわっているのだから。


 鎧姿のゲルヴィスが林檎のパイを切り分けている姿は、こんな時でなければちくはぐで微笑ましく見えるが、もちろん今のトリンティアには、緊張を緩める余裕などなかった。


 そもそも、お茶会なのに鎧をまとっているということ自体が、いざとなれば荒事も辞さぬというウォルフレッドの強い警戒を雄弁に物語っている。


 切り分けたパイをゲルヴィスが無作為に皿に載せると、侍女達が最も位が高いウォルフレッドから順に、皿を運んでいく。


 紅茶は、侍女が運んできたカップをウォルフレッドが選び取る。同じポットからつがれたものでも、カップに毒が塗られている可能性があるためだ。


 優雅な仕草で立ち歩く侍女達は皆、同性のトリンティアでも見惚みほれてしまうほど美人ばかりで、トリンティアの給仕をさせるのが申し訳ない気持ちになってしまう。


 トリンティアの前に置かれたパイは、中からこぼれ落ちそうなほど、ぎっしりと林檎の薄切りが詰まっていた。紅茶の香気に混じって、シナモンの特徴的な香りが漂い、思わず口の中に唾液が湧く。が、ベラレス公爵側が手をつけるまで、食べるなと事前に言い含められている。


「お先に失礼いたします」


 公爵とネイビスが断りを入れてから、紅茶とパイに手をつける。二人が食べる様子を観察してから、ウォルフレッドもようやくカップに手を伸ばした。


 ウォルフレッドが洗練された仕草で紅茶をひと口含み、かすかに頷いたのを確認してから、トリンティアもカップを手に取る。


 澄んだ琥珀色こはくいろ水面みなもに視線を落とすと、強張った顔の自分自身と目が合った。


 映った姿がゆらゆらと揺らめくのは、トリンティアの震えがカップにまで伝わっているせいだ。


 いつまでも、こんなみっともない姿を見せていては、ウォルフレッドに申し訳ない。


 トリンティアはおなかに力を入れてぴんと背筋を伸ばすと、できるだけ優雅に見えるように気をつけながら、カップに口をつけた。


 心を落ち着かせる優しい香りとあたたかさに、思わず吐息がこぼれる。


 冬が近づいてきた今は、暑さなどまったく感じないのに、いつの間にか、緊張で喉がからからに乾いていたらしい。


 トリンティアがカップを受け皿に戻すと、ちょうどウォルフレッドがパイをひと口、食べ終えたところだった。と、ずい、と自分の皿をトリンティアの前へ押し出す。


「食いたいのなら、これを食え。少なくとも、これには毒は仕込まれていないようだ」


 驚いてウォルフレッドを振り向くと、


「前にも言っただろう? わたしは甘いものはあまり好かぬ」

 と、トリンティアを見もせず告げられた。


「あ、ありがとうございます……」


 図らずも皇帝に毒見役をさせてしまったことにおののきつつ、フォークを手に取る。


 ウォルフレッドが口をつけたパイを食べるなんて、前に二人で林檎のパイを食べた時の逆のようで、なんだかどきどきしてしまう。


 艶出しの卵黄で、まるで黄金のように輝くパイにフォークを刺すと、さっくりとした感触が伝わってきた。


 口に入れると、シナモンの香りがいっそう濃く漂う。蜜漬けにされた薄切りの林檎はしゃりっとした食感を残していて、さっくりしたパイ生地との食感の違いが味わい深い。


 王城で食べた林檎のパイよりも、公爵家のパイのほうが甘さが強い気がする。ウォルフレッドがトリンティアにくれたのは、甘すぎたからに違いない。


「……ずいぶんと『花の乙女』を大切にしていらっしゃるのですな」


 ひそやかな笑い声がテーブルにこぼれる。


 視線を向けると、公爵が孫に目を細める好々爺のような表情でウォルフレッドを見つめていた。


「今のところ、わたしのたったひとりの花だからな。気遣うのは当然だろう?」


 ウォルフレッドが機嫌をそこねたように鼻を鳴らす。


 「今のところ」という言葉に、トリンティアの胸が鋭く痛む。


 イレーヌが現れた今、トリンティアはいつ『花の乙女』を首にされてもおかしくない。


 こんなに甘いのに、不意にパイが土に変わってしまったかのように苦くなる。


「さて」


 カップを置いた公爵が、す、と背筋を伸ばす。


 今までとは異なる強い声音に、トリンティアも反射的に両手を膝の上に揃え、姿勢を正した。


「では、本題に入りましょう」


 小柄な身体に、大貴族にふさわしい威厳をみなぎらせて、公爵が告げる。


「陛下と『花の乙女』にわざわざご足労をいただいた理由は、皇帝となられたウォルフレッド様のお人なりを、この目で確かめたかったゆえでございます」


「人となり?」

 ウォルフレッドがいぶかしげに目をすがめる。


「そんなものを、なぜわざわざ確認する必要がある? お前達が都合のよいように操れるよう、わたしが暗愚かどうか、確認しておきたいとでも?」


 ウォルフレッドの挑発を、公爵はゆったりと微笑んで受け流す。


「陛下がそう思われたいのでしたら、そうお考え下さいませ。わたくしをご信用くださいと申しあげたところで、陛下の疑心は簡単にはとけますまい」


 心の内を見透かしたように指摘され、ウォルフレッドが押し黙る。


「わたくしには、大きな懸念事項があるのです。先ほどまでのやりとりで、陛下のご気質の一端はうかがえましたが……。差し支えなければ、『花の乙女』のお嬢様に、いくつか質問をお許しいただけますか?」


 突然、自分のことを口に出されて、トリンティアは思わず身を固くする。


 公爵の要望に、ウォルフレッドの眉がますますきつく寄った。


「わたしの『花』に? 言っておくが、こいつがわたしに仕えてから、まだ半月ほどしか経っておらんぞ? お前が得たいと思う情報を、この娘が持っているとは思えんが」


 トリンティアに視線を向けすらせず、ウォルフレッドが公爵を睨みつけて冷ややかに告げる。が、公爵はゆったりと頷いた。


おそれながら、有用かどうかを判断するのは、陛下ではなくわたくしでございます。加えて、過去の陛下を知らぬ者の目から見ることで、思いがけぬ知見を得られることもございましょう。なにとぞ、陛下におかれましては口出し無用にてお願いいたします」


「……よかろう」


 ウォルフレッドが苦い顔で頷いたのを確認してから、公爵がトリンティアへ視線を向ける。


 トリンティアはぴんと背筋を伸ばして身構えた。

 いったい何を聞かれるというのだろう。不安でしかない。


「では、『花の乙女』であるお嬢様にお聞きしましょう」


 表面上はあくまでも穏やかに微笑んで公爵が問う。


「陛下は、『花の乙女』であるあなたを、毎夜、どのように寵愛されておられるのかな?」

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