47 陛下のおそばで、陛下にふさわしい『花の乙女』のふるまいを


 ベラレス公爵の屋敷へ続く道は、王都のすぐそばに、これほど深い森が残されていたのかと驚くほど、鬱蒼うっそうと繁る森の中を貫く道だった。


 きちんと整備されているのは馬車に伝わる揺れの小ささからわかるものの、道の両側から枝葉を伸ばす木々は陽の光を遮り、陰鬱極まりない。


 この道の先に待つベラレス公爵は、いったいどんな人物なのだろうかと、嫌でも不安がこみ上げてくる。


 と、不意に木々が途切れ、馬車の小さな窓から、秋の午後の柔らかな光が差し込んできた。


 森の中の道を抜けたのだと気づくと同時に馬車が止まり、トリンティアは慌ててウォルフレッドの膝から下りた。こんなところを扉を開けた御者に見られるわけにはいかない。


「失礼いたします」


 御者が恭しく扉を開ける。扉の前にいたのは、ゲルヴィスだった。


 鍛え上げられた身体に立派なよろいまとったゲルヴィスは、ふだんの少し浮ついた雰囲気が一掃されていて、どこからどうみても、威厳に満ちあふれた銀狼国の将軍だ。


 事前に言い聞かせられていた通り、トリンティアは差し出されたゲルヴィスの手を借りて馬車を降りようとした。


 緊張のあまり、動きがぎこちないトリンティアを励ますかのように、ゲルヴィスが握った手にほんのわずかに力をこめる。


 剣だこでごつごつした手のひらは分厚くあたたくて、この上なく頼もしい。


 小さく息を吐いて緊張を追い出し、ゆっくりと踏み段を降りる。


 屋敷の前には、立派な服を着た壮年の男性と、多くの使用人達がずらりと並んでいた。彼等の視線が突き刺さるように感じられたが、イルダにさんざん言い含められた通り、表情を動かさずに無視する。


「よいですか。陛下の『花の乙女』として知られているのは、今のところ、あなた一人です。多くの者があなたを好奇や憎悪の視線で、見定めようと観察してくることでしょう。ですが、あなたがそのひとつひとつに反応する必要はありません。勝手にさせておけばよいのです。あなたはただ、陛下のおそばで、陛下にふさわしい『花の乙女』のふるまいをすることにだけ、心血を注ぎなさい」


 イルダの静かな声が心の中に甦る。


 教えられた通りに、トリンティアは表情を消し、できるだけ優美に見える仕草で、ゲルヴィスの隣に並んで深くこうべを垂れる。


 公爵家の使用人達も、一糸乱れぬ衣擦きぬずれの音を立ててこうべを垂れた。


 その中を。

 わずかに踏み段をきしませて、ウォルフレッドが馬車から降り立つ。


 それだけで、空気の色が変わった気がした。皇帝の畏敬いけいに打たれたかのように、空気がぴんと張り詰める。


「ようこそお越しくださいました。このたびは招待をお受けいただき、感謝の念にたえません。申し訳ございません。父は老齢で立ち歩くこともままならぬため、茶会の場である庭園にて陛下をお待ち申し上げております。代わりに次期公爵であるわたくし、ネイビスがご案内を務めさせていただきます」


 居並ぶ使用人達を従え、先頭に立つ壮年の男が、恭しく告げる。


「そうか」


 言葉を尽くすネイビスに対し、ウォルフレッドが返したのは簡潔な一言だけだ。


「こちらでございます」


 気を悪くした様子もなく、片膝をついていたネイビスが、立ち上がって案内する。


 どうやら屋敷の中を通って庭園へ行くらしい。重々しい扉がネイビスの歩みに合わせて開く。そこにも、使用人達がずらりと頭を垂れて控えていた。


 トリンティアにとっては、この間を歩くというだけで足がすくみそうだが、ウォルフレッドの歩みはまるで、無人の野を行くかのようだ。


 ウォルフレッドのすぐ後ろをゲルヴィスと並んで歩きながら、トリンティアはただただ圧倒されていた。


 ベラレス公爵の屋敷は、王城かと見まごうほどの壮麗さだ。


 まだ午後だというのに蝋燭ろうそくが灯された邸内は明るく、ちりひとつなく清められた廊下の隅々までよく見える。


 床は色違いの大理石が幾何学模様を描いており、両側の壁には色鮮やかなタペストリーや、代々のベラレス公爵を描いたと思しき絵が飾られていた。


 明らかに、トリンティアごときがいていい場所ではない。王城で慣れていなければ、緊張で歩くことすらままならなかったに違いない。


「わたしだけを見つめていればよい。そうすれば、余計なものなど目に入らぬだろう?」


 不意に、傲慢なほどの自信にあふれた言葉が、耳の奥に甦る。


 トリンティアは視線を上げると、すぐ前を歩くウォルフレッドの後姿を見た。


 きらびやかな衣装を纏った広い背中。

 あと数歩、距離を詰めればふられるほど近くにいられるのだと思うだけで、喜びに心が震える。


 自分などがこの方のお役に立てるのならば、何だってしよう。

 同時に、この方の足を引っ張るような真似は決してするまいと心に決める。


 ベラレス公爵家の歴史の長さと財力を来訪者に誇示するかのような長い廊下を通り抜け、ネイビスが突き当たりの扉に近づくと、計ったかのように扉が大きく開けられた。


 秋の午後のまばゆい陽射しが差し込んでくるが、明るい廊下を歩いていたため、目がくらむほどではない。


「この心遣い。歓迎されていると受け取ってよいようだな」


 黙していたウォルフレッドが、トリンティアには理解できぬ呟きを洩らす。張り詰めていた背が、ほんのわずか緩んだように見えた。


 ネイビスが「もちろんでございます」と大きく頷く。


「陛下をお招きしておきながら、目を眩ませて襲撃しようなど……。そのようなことを考えるはずがございません」


 ネイビスの言葉に、廊下に蠟燭が灯されていた真の意味を知る。あれは、公爵家の財力を示すためだけはなく、扉を開けた時に目が眩まぬようにという気遣いだったらしい。


 同時に、ウォルフレッドが襲撃される可能性を考慮していたのだと知って、ひやりと氷の塊が胃に落ちる。


「公爵はあちらでございます」


 扉の向こうに広がる庭園の一角をネイビスが示す。


 そこには、優に十人は席につけそうな大きなテーブルが置かれていた。だが、周りに侍女は何人もいるものの、こちらに背を向けて座っているのは、小柄な白髪の老人、一人きりだ。


 秋薔薇やエリカ、ヒースなど、秋の花々が美しく咲き誇る庭園の小道を通り、テーブルへと向かい、テーブルの両端の席にそれぞれ腰かける。


 ベラレス公爵の隣には息子のネイビスが、対面にはウォルフレッドを中心に左右にトリンティアとゲルヴィスという形だ。供としてついてきていた騎士達は茶会には参加しないらしく、玄関のところで別れている。


 ウォルフレッドが席に着いたところで、対面に座るベラレス公爵が、テーブルに額がつきそうなほど、深く頭を下げた。


「お久しぶりでございます。このたびは、わたくしの招きに応じていただき、感謝の言葉もございません。本来ならばひざまずき、陛下をお迎えすべきところでございますが……。一昨年、病を得て以来、足を動かすこともままならないのでございます。どうか、非礼をお許しくださいませ」


 丁寧な口上に、トリンティアは虚を突かれる。


 ウォルフレッドが警戒する様子から、ベラレス公爵はもっと居丈高で、皇帝に足を運ばせたことをおごるような人物だと思い込んでいた。


 だが、頭を下げ続ける小柄な老人からは、そんな気配は一切感じられない。と。


「皇帝であるわたしを、この忙しい時期にわざわざ呼びつけた理由は、跪けぬ原因を詫びるためか?」


 万年雪より冷ややかなウォルフレッドの声が、ベラレス公爵に投げつけられる。


「そのようなことならば、使者に伝えさせれば十分であろう? わたしは老いぼれの暇つぶしにつき合うほど酔狂ではないのだ。用件があるならばさっさと申せ」


 ベラレス公爵より、よほど傲岸ごうがんに言い放ったウォルフレッドに、公爵がゆっくりと顔を上げる。深いしわが刻まれた面輪には、トリンティアの予想に反して、生意気盛りの孫を見守るような、優しげな笑みが浮かんでいた。


「若いというのは、素晴らしいことでございますな。数年、お会いせぬ間に、これほどたくましくなられているとは。お父上と共に王城でお会いした頃が、懐かしゅうございます」


 瞬間。


 トリンティアは、雷が落ちたのだと思った。

 無音の紫電が空を穿うがったのだと。


 それほど、ウォルフレッドから放たれた怒気は苛烈かれつで。


 恐怖に歯の音が合わない。身体がきしんで、息さえままならなくなる。

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