45 ……鶏がらは、もうやめだ


「あ、あの……っ」


「今日はお前が支度している間、別行動だったからな。ベラレス公爵の前で、弱っているところなど見せられん」


「は、い……」


 膝の上から逃げ出そうとしていたトリンティアは、低い声で呟かれた言葉に、身動みじろぎするのをやめ、大人しく頷く。


 トリンティアがウォルフレッドのそばにいられるのは、『花の乙女』だからだ。


 何があっても、その役目だけは放棄するわけにはいかない。


 もし、そんなことをしたら――。トリンティアは、ウォルフレッドのそばにいられる理由を、即座に失ってしまう。


 トリンティアは、できるだけ心を無にしようと試みる。


 ウォルフレッドに横抱きにされるのはいつものことだ。今日はただ、ふだんと違って豪華なドレスを着ているせいで、変に緊張してしまっているだけなのだ、と。


 だから、動揺し過ぎて、ウォルフレッドにトリンティアの心の内を気づかれるわけにはいかない。


 そう、気を引き締めようとしたのに。


「今日はわたしから離れるのは許さん。先ほど、言っただろう? そばで眺めて愛でるのも楽しかろうと。離れては、愛でられぬ」


 ウォルフレッドが不意に耳元で悪戯っぽく囁く。


 どこか甘い響きを持つ声に、少し落ち着きかけていた鼓動が、一瞬で跳ね上がる。


「めっ、愛で……!? ご、ご冗談はお許しくださいませ! 私のようなみっともない者を愛でられるなど……っ」


 うわずった声で言い、真っ赤になっているだろう顔を背けようとしたが、叶わなかった。ウォルフレッドの大きな手にあごを掴まれ、強引に振り向かされる


「二度も言ったではないか。今日のドレスはお前によく似合っていると。それとも、お前はわたしの言葉が信じられぬと?」


「め、滅相もございません!」

 わずかに低くなった声に、トリンティアは泡を食って抗弁する。


「陛下のお言葉を疑うなど、決して……っ」


 ふるふるとかぶりを振ると、ウォルフレッドが満足そうに頷いた。


「では、愛でるのに何の問題もなかろう。よく似合っている。まさに、『花の乙女』と呼ぶにふさわしい愛らしさだ」


「っ!」


 思考が沸騰する。頭が漂白されて、何も考えられない。


 息すらうまくできなくて、釣り上げられた魚のように、あうあうと唇を開閉していると、ウォルフレッドが吹き出した。碧い瞳に楽しげな光がおどる。


「ああ、やはりお前は、菓子を与えるのと、恥ずかしがらせるのが一番よいようだな。感情が素直に出て、心楽しい」


 妙に弾んだ口調で、ウォルフレッドが告げる。


 が、トリンティアは舞い上がるどころではない。混乱の渦に叩き込まれる。


「わ、私などを愛らしいなど……っ。そんなことをおっしゃっては、聞いた者が、陛下が熱を出されたと思われましょう!?」


 愛らしいなんて、今まで一度も言われたことがない。


 しかも、それを見惚みほれるほど端正な顔立ちのウォルフレッドに言われるなんて。悪い冗談としか、思えない。


「ん? 熱が出ていそうなのはお前のほうだろう? 熟れた林檎のように顔が赤くなっておるぞ。……本当に、熱があるのではなかろうな?」


 心配そうに呟いたウォルフレッドが、不意に顔を寄せてくる。大写しになった端正な面輪に、トリンティアは思わず目を閉じて身を強張らせた。


 こつん、と額にウォルフレッドの額が当たる。麝香じゃこうの香りが甘く薫る。


「熱というほど、熱くはないようだが……」


 あたたかな呼気が肌をくすぐるだけで、緊張にますます身が固くなる。


「ね、熱などございません!」


 このままでは心臓が壊れてしまいそうで、ウォルフレッドを押し返しながら必死に声を上げる。


「か、顔が熱いのは、陛下のお言葉のせいです! 予想もつかないことをおっしゃって、混乱の極みに落とされるから……っ」


「何を言う?」


 トリンティアから顔を離したウォルフレッドが、なぜ抗議されているのか理解できないと言わんばかりに、憮然ぶぜんとした声を出す。


「わたしが愛らしいと思ったものを、その通り口にして、何が悪い?」


「い、いくら世辞といいましても、事実と全く異なることをおっしゃって、驚かせるのはおやめくださいませ……っ」


 こわごわとまぶたを開け、トリンティアは泣きたい気持ちで訴える。


「陛下が、慣れぬドレスに緊張している私の心をほどこうと、お心を砕いてくださるのは嬉しゅうございます。ですが……。自分がどれほどみすぼらしいかは、私自身が一番承知しております! いくら豪華なドレスを着せていただいても、しょせん中身は鶏がら。ちくはぐでみっともないだけだと、重々わかっておりますから……っ」


 必死で言い募ると、なぜかウォルフレッドが渋面になった。


「……鶏がらは、もうやめだ」


 ぎゅっ、とウォルフレッドの力強い腕に抱き寄せられる。


「ほんの少しとはいえ、肉もついてきたからな」


「っ!」


 言われた瞬間、豪華なドレスが薄い絹の夜着に変わったのではないかと錯覚する。


 ウォルフレッドに出逢った日に着せられた、身体の線もあらわな夜着。


 怯えるトリンティアに、ウォルフレッドが呆れたように告げた言葉が、脳裏によみがえる。

 「いくら飢えていても、鶏がらをしゃぶるほど落ちぶれてはおらん」と。


 おりから放たれた野犬のように、トリンティアの意思に関係なく、勝手に思考が走り出す。


 ――なら、今は?

 鶏がらよりましになったという今ならば――。


 暴走しかけた思考を、トリンティアは必死に押し留める。


 いったい、今、何を考えようとした? 駄目だ。これ以上、思考を進めてはいけない。トリンティアのは……。自分ごときが願ってはいけない望みだ。


 トリンティアは目を閉じ、心の揺れを奥深くへと押し込める。


 こんな浅ましい願いを抱いていることを、決してウォルフレッドに知られるわけにはいかない。


 もしウォルフレッドが知れば、なんと不快なと呆れ果て、即刻、首にするに違いない。ただでさえ、あと少ししかないウォルフレッドのそばにいられる時間を、自分から手放すなんて、絶対に嫌だ。


 こんな願いなど、抱いてはいけない。


 トリンティアはただ、ウォルフレッドが望むままの都合のよい『花の乙女』でいなければ。


 そこに、トリンティアの想いが入る余地など、ありえないというのに。


「トリンティア」


 名前を呼ばれるだけで、心が歓喜にうち震える。


「どうした?」

 問われて、おずおずと目を開ける。


 碧い瞳が、射抜くように真っ直ぐトリンティアを見つめていた。


 それだけで、心の奥に押し込めたはずの恋心が、ふわりと浮かび上がってきそうになる。


 ウォルフレッドに心の内を見透かされるのではないかという不安に、トリンティアは咄嗟とっさに目を伏せた。


「何でもございません。その……。鶏がらでなくなったのは陛下のご厚情ゆえかと思うと、感謝の念が抑えきれず……。何とお礼を申し上げたらよいのかと、考えていたのでございます」


 お願いだから、ウォルフレッドが何の疑問も持ちませんようにと、祈りながらごまかそうとする。だが。


「わたしを見ろ」


 人を従わせずにはいられない強い声音に、弾かれるようにウォルフレッドを見上げる。


 先ほどまで楽しげな笑みに彩られていた端正な面輪は、気がつけば不機嫌そうにしかめられていた。


「トリンティア。最近、何かわたしに隠していることはないか?」

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