44 紅く色づいていると、まさに花だな


「どうした?」


 問われても答えるどころではない。一言でも話したら、口から心臓が飛び出しそうだ。


 落ち着かねばと深呼吸すると、麝香の香りが胸に満ちる。


 かぎ慣れた香りは、けれど心を落ち着かせるどころか、きゅうっと胸を締めつけてくる。


「も、申し訳ございません……」


 このまま抱きしめられていたら気を失いそうな気がして、トリンティアは謝罪してウォルフレッドから離れようとした。が。


「ひゃっ!?」


 それより早く、いつものように抱き上げられる。まさか、今日まで抱き上げられるとは思っていなかった。


「お、下ろしてくださいませ!」


 ばくばくと鼓動がうるさい。

 トリンティアの懇願に、ウォルフレッドが不思議そうに首を傾げる。


「お前を抱き上げて運ぶのは、いつものことだろう?」


「そ、そうですが……」


 ベラレス公爵に会うためだろう。今日のウォルフレッドは、いつも以上にきらびやかな装いだ。


 瞳よりも濃い青の絹の服には、刺繍だけでなく、要所要所に宝石まで縫いつけられていて、凛々しい美貌をまばゆいばかりに引き立てている。月の光を編んだような銀の髪は後ろへ撫でつけられていて、秀でた額が露わになっていた。


 威厳に満ちあふれた美貌の青年皇帝の前では、どんな美女であろうとかすんでしまうだろう。


「では、行くか」


 ゲルヴィスに一声かけたウォルフレッドが歩き出す。


 今日はゲルヴィスが供として随行するらしい。ゲルヴィスが身に着けているのは、鏡のように磨き上げられた立派なよろいだ。セレウスは供に命じられていないのか、いつもと変わらぬ服装だった。


「なぜ、顔を隠す?」


 歩き出してすぐ、ウォルフレッドがいぶかしげな声で問う。


 いつもヴェールで隠れている顔があらわになっているいたたまれなさに、両手で顔を覆っていたトリンティアは、手を外さずに説明した。


「こうしていましたら、見えるのは美しいドレスだけでございましょう? 身体の貧相さは隠しようがございませんが、せめて顔を隠していれば、陛下がみっともない娘を連れていると嘲笑されるのを、少しでも防げるのではないかと……」


 蚊の鳴くような声で告げた途端、ぶはっと吹き出す声が聞こえた。声の主はゲルヴィスだ。しっかり、聞こえてしまっていたらしい。


 ウォルフレッドからは憮然ぶぜんとした声が返ってくる。


「わたしが似合っていると言ったのを聞いていなかったのか? ともかく、手をのけろ。まるで、わたしが泣いている娘を無理やり連れ去っているように見える。すれ違う者の奇異の視線がかなわん」


「も、申し訳ございません!」


 あわててぱっと手を下ろす。が、遮るヴェールもなく、すぐそばにウォルフレッドの端正な面輪があると思うと、とてもではないが、恥ずかしくて目を開けてなどいられない。心臓がばくばくしすぎて、ウォルフレッドの足音さえ、耳に届かぬほどだ。


 両手を胸の前で握り、目をぎゅっと閉じていると、ウォルフレッドがふは、と笑う声が聞こえた。


「耳まで真っ赤にそまっているぞ? ふだんはヴェールに隠れて見えぬが、いつもそんな顔をしているのか?」


 からかうような声に、ただでさえ熱い頬が、燃えるように熱を持つ。


「ひ、人前で抱き上げられるのは、やっぱり恥ずかしすぎるのです……っ」


 心臓の音と一緒に、胸の奥に封じ込めたはずの恋心までウォルフレッドに伝わってしまったらどうしようかと、不安で泣きたい気持ちになってくる。


 ようやく、ここ数日は、そばに仕えていても、表面上は冷静さを保てるようになってきた気がするのに……。


 見せかけの強がりは、ふとしたことでがれて、隠しておかねばならぬ恋心が出てきてしまいそうで、困ってしまう。


 ウォルフレッドへの恋心は、胸の奥に秘して、トリンティアが『花の乙女』をお役御免になるまで、隠し通さねばならぬのだから。だというのに。


「トリンティア」


 ウォルフレッドに名前を呼ばれるだけで、ぱくんと心臓が飛び跳ねる。


 思わず目を開けてしまった視界に飛び込んだのは、トリンティアを見下ろすウォルフレッドのどこか甘くて悪戯いらずらっぽい笑み。


「そうして紅く色づいていると、まさに花だな。そばで眺めて愛でるのも楽しかろう」


「っ!?」


 瞬間、ばふんっ、と思考が沸騰ふっとうする。


 反射的に腕の中から逃げ出そうと身をよじると、逆にぎゅっと抱き寄せられた。


「どうした? 落ちてしまうぞ?」


 望むところです! と心の中で叫び返しながら、あわあわと口を開く。


「ご、ご冗談はおやめくださいませ……っ。心臓が、壊れてしまいます……っ」


 泣きたくなるほどの混乱と羞恥に襲われているというのに、ウォルフレッドはくつくつと楽しげに喉を鳴らしている。


 トリンティアがぎゅっと目を閉じ、少しでも心を落ち着かせようと無駄なあがきをしていると、不意にまなうらに光を感じた。


 柔らかな風が頬を撫で、ドレスの裾を揺らして過ぎてゆく。


 うっすらと目を開けると、目の前に金と銀で飾り立てられた立派な馬車があった。王城の外へ出たらしい。


 ゲルヴィス以外の供だろう。馬車の後ろには、きらびやかな鎧を纏い、マントを風に揺らしてこうべを垂れる数人の騎士達の姿も見える。隣に立つ馬の手綱を握っているところを見ると、馬で一緒に来るのだろう。


 王城へ奉公にあがってから約一か月。思えば、外へ出るのはこれが初めてだ。


 御者が恭しく開けた扉を通って、ウォルフレッドがトリンティアを抱き上げたまま、馬車に乗り込む。


 ようやく下ろしてもらえると、ほっとしたのも束の間、そっとふかふかの座席にトリンティアを下ろしたウォルフレッドが、そのまま隣に腰かける。


 てっきりウォルフレッドは向かいに座るものだと思っていたトリンティアは、驚きに思わず声を上げた。


「あのっ、陛下もこちらに……?」


 四人乗りの馬車なので、二人が並んで座っても十分な広さがある。とはいえ、わざわざ並んで座る必要はあるまい。


「わ、私が隣では、ドレスの裾が邪魔でございましょう? 私は向かいに……」


 慌てて立ち上がり、移動しようとしたところで、馬車が動き出した。


「ひゃっ!?」


 馬車なんて、王都へ来る時に一度乗っただけの経験しかないトリンティアは、急な揺れにたたらを踏む。


 ぐらりと揺れた身体を掴んで引き寄せたのは。


「急に立つな。危ないだろう?」


 ウォルフレッドの呆れ声がすぐ近くで聞こえる。


「も、申し訳ございませ――、っ!」


 反射的に見上げた瞬間、驚くほど近くにあった端正な面輪に、息を飲む。


 呼吸を止めたまま、動けないでいると、ウォルフレッドが流れるように動いた。ふわりと、膝の上に横抱きに抱き上げられる。


「わたしのそばから、離れるな」

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