43 ただ、名前を呼ばれただけ


「ほう、これは……」


「いやー、化けたモンだな。こりゃあ……」


「さすがイルダ殿、お見事ですね」


 イルダに先導され、ウォルフレッドの私室に足を踏み入れた途端、聞こえてきた呟きに、トリンティアは緊張と不安に身を強張らせた。


 ベラレス公爵との茶会の日である今日は、朝の数件の謁見が終わった後から、ずっと支度に追われていた。


 イルダの手によって、まだ日も高いうちから湯浴みさせられ、丹念にくしけずられた髪を複雑に結い上げてもらい、絹の美しいドレスを着せられ……。生まれて初めて、化粧までしてもらった。


 いつもの謁見はヴェールで顔を隠しているが、さすがに飲食する茶会の時は、顔を隠しているわけにはいかぬらしい。


 さらに、今日着せられているのは、『花の乙女』であることを表す白い絹のドレスだが、銀糸で花の細やかな刺繍がほどこされた明らかにいつもとは格が違うドレスだ。


 こんな綺麗なドレスを着たことなどないトリンティアにとっては、嬉しいよりも先に、万が一、汚してしまったりしたらどうしようと、恐れ多い気持ちのほうが大きい。


 何より、貧相極まりないトリンティアが着飾ったところで、ちぐはぐでみっともないだけだろう。


 華やかなイレーヌがこの美しいドレスをまとえば、見る者を魅了せずにはいられないほど可憐だろうにと思うと、ベラレス公爵との茶会への供が、トリンティアで本当に良いのだろうと、不安でいても立ってもいられなくなる。


 床にくずおれずに立っていられるのは、ひとえに、へたりこんでドレスを汚しては一大事だからだ。


「も、申し訳ございませんっ!」


 最初に呟いたまま、無言でトリンティアを見つめ続けるウォルフレッド達三人に、トリンティアは身体を半分に折るようにして謝罪した。


 大きく動いた拍子に、ふわりと花のよい香りが漂う、イルダにつけてもらった薔薇の香油だ。


「何を謝る?」


 ウォルフレッドのいぶかしげな声が降ってくる。深く頭を下げたまま、トリンティアは言を次いだ。


「そ、その。せっかく美しいドレスをご用意くださったというのに、着る者が私などで……。陛下のお供の一人だというのに、みっともなくて申し訳ございません!」


「そんなことはないと言ったではありませんか」

 呆れ混じりの声を出したのは、隣に控えるイルダだ。


「わたくしが勧めても、鏡を見るのをかたくなに嫌がって……」


 トリンティアは消え入りたい気持ちで身を縮めた。


「イルダ様や、侍女の方々が丹精込めて支度をしてくださったのは承知しております。ですが、私などが着飾っても、みすぼらしいままでございましょう。それが、あまりに申し訳なくて……」


 いくらイルダ達の腕がよくても、鶏がらはしょせん鶏がらだ。自分のせいでイルダ達の努力を無駄にしたのだと思うと、申し訳なさすぎて、鏡を見ることすらできない。


 イルダがどことなく芝居がかった様子で、ふう、と溜息をつく。


「トリンティアの誤解をとくのは陛下にお任せいたします」


 イルダの声に応じて、ウォルフレッドが一歩踏み出したのがわかった。うつむいた視界に、ウォルフレッドの磨き上げられた靴の爪先が入る。


「トリンティア」


 名前を呼ばれただけなのに、驚愕で身体が震える。


 いつも「鶏がら」か「お前」としか呼ばれないので、ウォルフレッドに名前を呼ばれたのは初めてだ。


 耳の心地よく響く深みのある声で名前を呼ばれただけで、喜びに心が震える。


 ただ、名前を呼ばれただけ。


 それだけなのに、それが恋しい相手だというだけで、泣きたくなるほどに嬉しい。

 ウォルフレッドが『花の乙女』ではなく、トリンティア自身を見てくれたようで。


「あ、あの。名前、を……?」


 おろおろと洩らした呟きに、ウォルフレッドがあっさり頷く。


「さすがにベラレス公爵の前で「鶏がら」とは呼べぬだろう?」


 ウォルフレッドの言葉に、その通りだと納得する。同時に、舞い上がりかけていた心が、ぺしゃりと地に落ちた。


 そうだ。何を勘違かんちがいしかけていたのだろう。


 ウォルフレッドはただ、外聞をつくろうために名前で呼んだだけ……。それなのに、何かを期待しようとするなんて。


 ウォルフレッドへの想いを決して募らせぬよう、恋心を自覚してい以来、自分をいましめていたというのに。


 今日はいつもと勝手が違うせいだろうか。些細なことで、心が揺れてしまう。と。


おもてを上げろ」


 命じられ、おずおずと顔を上げる。


 目をつむって、ここから一目散に逃げだしたい。みっともないと自分でわかっていても、ウォルフレッドに改めて口に出されたら、情けなさに泣き出してしまいそうだ。


 トリンティアを頭のてっぺんから爪先まで見たウォルフレッドが、「ふむ」と頷く。


「イルダの見立ては確かだな」


 満足そうに頷いたウォルフレッドが、不意に柔らかく微笑む。


「よく似合っている。可憐で、まさに『花の乙女』と呼ぶにふさわしいな。正直、見違えたぞ」


「……え……?」


 ちゃんと耳に入ったはずなのに、何と言われたのか理解できない。

 呆然と呟くと、不思議そうに首を傾げられた。


「どうした? 似合っているだけでは言葉が足らぬか?」


 端正な面輪が、甘やかな笑みを浮かべる。


つぼみが開いたかのように、愛らしい。今日は、わたしの隣でその姿を存分にでさせてくれ」


「っ!?」


 告げられた瞬間、腰が砕けて立っていられなくなる。


 あれほどこらえていたのに、かくんとくずおれそうになったトリンティアを、素早く一歩踏み出したウォルフレッドが抱きとめる。


 ふわりと、麝香じゃこうの甘い香りが漂った。

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