41 夏草がどこまでも伸びてゆくように


 イレーヌが『花の乙女』だとわかった瞬間、トリンティアは自分がくびになるのだと確信した。


 みすぼらしいトリンティアと美しいイレーヌを比べたら、誰だって、迷わずイレーヌを選ぶに決まっている。


 だというのに、ウォルフレッドはイレーヌをセレウスに預け、トリンティアを連れてきた。


 こうして私室に戻ってきた今でさえ、ウォルフレッドの行動が信じられない。


 ウォルフレッドに寄り添うイレーヌを見た時、壊れるかと思うほど、心臓が痛かった。


 今までサディウム伯爵から受けたどんな折檻せっかんよりも、痛くて辛くて……。


 叶うなら、泡沫うたかたのように、あの場から消えてしまいたかった。


 ほんの時折、見せてくれる柔らかな笑顔が。力強くあたたかな手が、自分でない誰かのものになってしまうところなど、見たくなくて。


 不意に、エリティーゼの言葉が脳裏によみがえる。


「あの方を想うだけで、心臓が壊れてしまいそうになるの。微笑んでくださるだけで、天にも舞い上がりそうなくらい嬉しくて、ご無事かしらと心配な時は、夜も眠れぬほど苦しくて、切なくて……」


 姉の言葉が理解できず、きょとんと見返すトリンティアに、エリティーゼは笑ったものだ。


「わたくしの大切なトリンティア。きっといつか、あなたにもそんな方が現れるわ。いいえ、現れてほしいと願っているの。お父様の目があるサディウム領では無理でも、ここを出られる機会さえ得られたら、きっと――」


 違う。と、トリンティアは記憶の中のエリティーゼの言葉を封じ込めようとする。


 だが、それより早く。


「きっと、あなたにも好きだと想う方が現れるわ」


 祈りを込めたエリティーゼの言葉が、トリンティアの心を照らす。


 まるで、厚い雲の隙間から、ひとすじの光が差し込むように。


 エリティーゼの言葉が、トリンティアの心の奥底に隠れていた小さな感情の芽を照らし出す。


 ――ウォルフレッドへの恋心を。


 同時に、心の中で、もう一人のトリンティアが叫んでいた。


 ウォルフレッドは銀狼国の皇帝で。

 トリンティアなど、本来なら姿を見ることすら叶わぬ雲の上の御方で。

 誠心誠意仕えるべき主人で……。


 そんな方に、恋心を抱くなど、不敬すぎてありえない、と。


 だが、一度名前をつけられた感情は、夏草がどこまでも伸びてゆくように、心の一番深いところに確固とした根を下ろす。


 初めて、トリンティアを守ると言ってくれた人。


 取るに足らないトリンティアを必要だと言ってくれ、今まで受けてきた仕打ちに、怒りをあらわにしてくれた人。


(私は、陛下が――)


 突然、自覚した恋心に戸惑いを隠せないまま、ウォルフレッドを見上げる。

 その視界に映ったのは。


「はっ、どんな毒が仕込まれているかもわからぬ『花の乙女』など……。そんなものをそばに置く気にはなれぬな」


 不快と苛立いらだちに満ちた表情で、トリンティアの問いかけに吐き捨てるウォルフレッドだった。


「見目麗しい『花の乙女』をあてがっておけば、前皇帝のように意のままに操れると考える愚かさには反吐へどが出る。わたしがそのような惰弱だじゃくな皇帝とあなどられていることもな。『花の乙女』など、皇帝を癒すための存在に過ぎぬというのに……。誰も彼も、重きを置きすぎる」


 ふれれば斬れる刃のような怒気を宿した声が、そのままトリンティアの心をも刺し貫く。


 そうだ。ウォルフレッドがトリンティアに優しくしてくれるのは。

 怪我や体調を気遣ってくれるのもすべて――。


 トリンティアが、『花の乙女』だから。


 『花の乙女』でないトリンティアには、何の価値も、ない。


 ウォルフレッドの優しさはすべて、トリンティアではなく『花の乙女』に向けられたものだというのに。


 それを勘違いして舞い上がるなんて、なんと愚かなのだろう。


「どうした?」

「っ!?」


 あまりにまじまじとウォルフレッドを見上げていたせいだろう。


 いぶかしげに問うたウォルフレッドの声に、トリンティアはびくりと震える。ウォルフレッドが困ったように眉を下げた。


「また怖がらせてしまったか? お前に怒っているわけではない。そう怯えるな」


「い、いえっ。大丈夫です……」

 早口に言い、顔を伏せる。


 ウォルフレッドに、自覚したての恋心を、見抜かれたかと思った。


 もしウォルフレッドがトリンティアの恋心を知れば、何と言うだろう。


 あの美しいイレーヌでさえ、不快げに突き放していたのだ。もしトリンティアが同じことをすれば、下女風情が愚かな勘違かんちがいをするなと、嫌悪に端正な面輪をいっそう歪めるに違いない。


 不愉快だ、と罵声を浴びるくらいなら、まだよい。

 仕えるべき主に下劣な思いを向けたと敬遠されたら――。


 イレーヌの美しい姿が甦る。


 今は、ウォルフレッドにとって都合のよい『花の乙女』がトリンティアしかいないから、そばに置いてもらえているのだ。


 トリンティアの身など、ウォルフレッドの気持ちひとつで、どうとでも好きにできる。もう顔を見るのも嫌だと、王城から追い出すことさえ、一言命じるだけですぐに叶う。


 お前など、何の役にも立たぬ厄介者だと……。


 サディウム領で毎日のように投げつけられていた罵声を忘れるなと、自分に言い聞かせる。


 そんなトリンティアがウォルフレッドを想っているなど……。何があろうと、決して知られるわけにはいかない。


 これは、いっときの夢なのだ。


 きっとこれから先、ウォルフレッドには何人もの『花の乙女』が献上される。

 その中には、ウォルフレッドが召し上げても問題がない者もいるだろう。


 トリンティアは、それまでの代わりに過ぎない。ウォルフレッドが呼ぶ通り、まさに「鶏がら」だ。


 最初、スープに入れて煮れば、後はもう、捨てられるだけ。誰も見向きもしない。


 トリンティアが捨てられるのはいつか――。

 十日後か半月後か、きっとそれほど遠い日ではあるまい。


 もっとふさわしい『花の乙女』が手に入れば、ウォルフレッドは『天哮の儀』をその者とり行うだろう。


 ――枯れて、しまえ。


 トリンティアは芽吹きかけた恋心を、心の奥底へとしまい込む。


 愚かな勘違いで生まれた恋心など、消えてしまえ。


 ウォルフレッドに知られて軽蔑されるくらいなら、こんなものはいらない。

 これは、いっときの夢なのだから。


 あとほんの少し――トリンティアの代わりにウォルフレッドのそばにはべる『花の乙女』が見つかるまでの間、ただ誠心誠意ウォルフレッドに仕えられたら、それでよい。


 だから、こんな想いなど――隠して、枯らしてしまえ。

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