38 すべてお前にやるから、そんな顔をするな
「悪かった。お前のパイを奪うつもりではなく……。とにかく、皿に残っている分はすべてお前にやるから、そんな顔をするな!」
「え……?」
「まったく……」
吐息したウォルフレッドが指先で涙をぬぐう。
「お前の反応はいつも予測がつかん。まさか、パイ一つで泣くとは……」
呆れたように呟いたウォルフレッドが、ほら、と皿から新しく取ったパイを一つ差し出す。
「あ、ありがとうございます。その、すみません……」
ごしごしと手の甲で目元をぬぐい、パイを受け取る。
「でも、よろしいのですか……?」
口をつけずに尋ねると、ウォルフレッドが首を傾げた。
「何がだ?」
「こんなに美味しいパイですのに。陛下も召し上がりたいのではないですか? 全部いただいては、申し訳なさすぎます」
「わたしのことは気にしなくてよい。もともと、あまり甘いものは好きではないのでな」
あっさりかぶりを振ったウォルフレッドの言葉に、目を見開く。
こんなおいしいものを好きではないと言う人がいるなんて。それとも、ウォルフレッドにとっては、菓子など当たり前のものなので、食べ飽きたということなのだろうか。それはそれで
「……食べぬのか?」
パイを持ったまま感心していると、気遣わしげに問われた。
「い、いえっ。いただきます!」
ぱく、とかじると、おいしさにふたたび頬が緩む。
「泣いたり笑ったり忙しい奴だな」
呆れたような、だがどこかほっとした表情でウォルフレッドが笑う。
「す、すみません……」
しばらく、
こんなおいしいものを一気に食べてはもったいないと、トリンティアは少しずつ、ゆっくりゆっくり味わって食べてゆく。
対して、ウォルフレッドが食べるのは速い。決して粗野な食べ方ではないが、皿いっぱいに盛られていたパンが、あれよあれよという間に、腹の中に収められていく。
トリンティアがパイを二つ食べるのと、ウォルフレッドが皿を空にするのが、ほぼ同時だった。テーブルの上に残っているのは、ウォルフレッドが全部食べてよいと言ってくれたパイが二つだけだ。
「あの……」
意を決して口を開く。
「残りの二つは、明日までとっておいてよいでしょうか……? あ、いえ。陛下が召し上がるのでしたら、どうぞお召し上がりくださいっ」
「一度、人のやると言った物を取り上げるわけがなかろう。わたしは貴族どものように二枚舌を使うのは好かぬ。約束を
葡萄酒で喉を潤したウォルフレッドが、心外だとばかりに凛々しい面輪をしかめた。
「別にいま食べても構わんぞ。わたしが食べ終わったからといって、遠慮することはない」
「ありがとうございます。ですが、今はもう入りそうにないので……」
「あれだけでか? 三つしか食べていないだろう?」
ウォルフレッドが碧い目を丸くする。
「お夕食をしっかりいただきましたから……。陛下のご厚情のおかげで、いつもお
「これでか?」
吹き出したウォルフレッドが、ぐっとトリンティアを引き寄せる。強くなった
『花の乙女』の務めなのだと言い聞かせ、ウォルフレッドのそばにいるのも、少しは慣れてきた気がするが……。
油断すると、ふとした拍子に心臓が騒ぎ出して、逃げ出したい気持ちになってしまう。
「今宵はいつもより
どこか甘い声で告げたウォルフレッドが、トリンティアの顔を見てくすりと笑う。
「パイの欠片がついているぞ」
「えっ!?」
慌てて口元にふれると、「逆だ」と教えられた。トリンティアが手を動かすより早く。
トリンティアの頭の後ろに手を回したウォルフレッドが、ぐいっと引き寄せる。同時に、端正な面輪が間近に迫り。
「っ!?」
ぺろりと唇のすぐ横を
心臓が、飛び出すかと思った。
「蜂蜜のせいか……。甘いな」
トリンティアの心のうちなど知らぬ様子で呟いたウォルフレッドと、ふと視線が合う。
背筋がそわりと
ぎゅっと目を閉じたいのに、魅入られたように視線が外せない。
ゆっくりと、ウォルフレッドの面輪が近づき――。
「……約束は
トリンティアにふれる寸前で、止まる。
ただ、肌にふれた吐息の熱さが、切ないような
揺れる心の
「入らぬのなら、明日の朝に食べればよい。気に入ったのなら、また作らせよう」
ふっ、とテーブルの上の蝋燭を吹き消したウォルフレッドが、トリンティアを抱き上げたまま立ち上がる。
急に深くなった闇に、ウォルフレッドの表情が見えなくなる。
ウォルフレッドが歩んだ先は寝台だ。いつものようにトリンティアを横たえたウォルフレッドが、背中側からぎゅっと抱き寄せる。
すぐに、健やかな寝息が聞こえてきた。いつものことながら、本当に寝つきがよい。
(さっきのは、何だったんだろう……?)
もしかして、まだパイの欠片が残っていたのだろうか。
そっと口元にふれてみるが、何もついていない。ただ、ウォルフレッドがふれた肌が、燃えるように熱い。
心臓もばくばく鳴っていて、しばらく治まりそうにない。先ほどのウォルフレッドのまなざしを思い出すだけで、何だか逃げ出したい気持ちに襲われる。
もしかしたら、さっきのは夢だったのかもしれない。そうだ、夢でもなければ、トリンティアなどが、あんなにおいしいものを食べられるわけがない。
夢だとしたら、残りのパイも無理にでも詰め込めばよかっただろうか。
もったいないことをしてしまったと悔やみながら、トリンティアもまた、いつしか眠りについていた。
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