37 『冷酷皇帝』と甘いお菓子を


 私室の前に控えていたのはゲルヴィスだった。中に入ったウォルフレッドは今夜は寝台へ向かわず、テーブルへと歩む。


「あ、あの……」


 行儀悪く、片足を椅子の足にひっかけて引いたウォルフレッドが、トリンティアを横抱きにしたまま座る。


 てっきり下ろしてもらえると思っていたトリンティアは慌てた。


「お、下ろしていただけませんか……?」


「菓子が来るまでの短い間だ。このままでもかまわんだろう?」


 ウォルフレッドの言葉通り、待つほどもなく、イルダが銀の盆に皿を載せてやって来る。まるで、あらかじめ用意していたような早さだ。


「他にご入用の物がございましたらお申し付けください」


 テーブルの上に皿を並べたイルダが、恭しく一礼し、消されていた燭台しょくだいを灯してから出ていく。


「え……?」


 テーブルの上を見たトリンティアは驚きの声を洩らした。


 イルダは菓子と言っていた。

 確かに、焼き菓子が乗った皿も、何種類もの果物を綺麗に切り分けた皿もあるが、一番大きな皿に載っているのは、薄切りにしたパンの間に、肉やら野菜やらを挟んだ料理だった。どう見ても食事だ、これは。


「で、では、お料理も来ましたし、下ろしてください」


 ともあれ、トリンティアが膝の上に乗っていては、邪魔だろう。下りようとしたが、ウォルフレッドの腕は緩まない。


「このままでも食べるのに問題はない。イルダもそれを見越して、片手で食べられる物を用意しているしな」


 左手をトリンティアの背に回したまま、ウォルフレッドが右手でパンを口に運ぶ。


「で、ですが……。お邪魔でしょう……?」


「お前が離れて、痛みがぶり返す方が困る。……今日は、そのせいで夕餉ゆうげをほとんど食べておらんからな」


「え……?」


 ウォルフレッドの告白に、動きを止める。今日は別々に夕食をとったため、そんなことになっているとは、全く知らなかった。


「ゲルヴィスとセレウス、どちらから聞いたのやら……。ともあれ、イルダの心遣いを無下にするわけにはいくまい」


 ウォルフレッドがパンにかぶりつく。


 パンに具を挟んだ料理など、職人や農民が仕事の合間に食べる料理だというのに、ウォルフレッドの手の中にあるというだけで、なんだか高級料理に見えるから不思議だ。


 手掴てづかみで食べているにもかかわらず、品がいいとしか思えないウォルフレッドの所作のせいだろうか。それとも、パンの間にぎっしり挟まれている分厚いお肉のせいだろうか。


「指の先まで意識を向けて、優雅に振る舞いなさい」


 と昼間さんざんイルダに指導されたが、ウォルフレッドはまさにお手本そのものだ。


 イルダが言っていたのはこういうことなのかと、まじまじとウォルフレッドを観察していると、一つ目のパンを平らげたウォルフレッドが首を傾げた。


「お前も食べるか?」


「い、いえ、違うんです。イルダ様がおっしゃっていたお手本とはこういうことなのかと、陛下に見惚みほれておりました」


 正直なところ、どうすれば上品さや優雅さが身につくのか、まったく想像がつかないのだが。


「それより、申し訳ございません。私が礼儀作法を知らぬばかりに、陛下にご迷惑をおかけしまして……」


 身体を折り畳むようにして詫びる。が、返ってきたのはあっさりとした声だった。


「何を謝ることがある? お前が貴族達の前に出して恥ずかしくない礼儀作法を身につけることは、わたしの益につながる。お前はわたしの『花の乙女』なのだから。貴族どもにあなどられては困る」


「は、はいっ。肝に銘じます」


 自分の行動がウォルフレッドの評判に関わってくるのだと思うと、胃が痛くなるが、気合を込めて頷く。


 トリンティアごときによくしてくれるウォルフレッドのためならば、励まぬ理由がどこにあろう。と。


「ほら」

 ウォルフレッドが焼き菓子をひとつ、トリンティアに差し出す。


「食べると言っていただろう?」

「あ、ありがとうございます」


 あわてて受け取った菓子は、作ってからさほど時間が経っていないのか、まだほのかにあたたかい。


 イルダが用意してくれていたのは、手のひらほどの長さの棒状のパイだった。きっとこれも、ウォルフレッドが片手で食べやすいよう、この形にしたのだろう。


 格子状に織り込まれたパイ皮が精緻せいちで美しい。艶出しに卵黄を塗っているのか、蝋燭ろうそくの光を照り返して、つやつやと輝いている。食べるのがもったいないほどだ。


「いただきます」


 かじると、さくっとした歯応えと同時に、蜂蜜の上品な甘さと、バターの濃厚な風味が口の中に広がった。


 あまりのおいしさに、思わず頬が緩む。


 甘い香りに誘われるようにもう一口かじると、今度は林檎の爽やかな酸味が広がった。中に、蜂蜜で甘く煮た林檎が入っているらしい。噛むたびに、しゃくしゃくと林檎の歯応えがし、中からじゅわっと蜜があふれてくる。


 こんなにおいしい食べ物がこの世に存在するなんて。夢でも見ているのだろうか。


 いや、夢だっていい。夢ならば、せめてこれを食べ終わるまで覚めないでほしい。


 無心でパイを食べていると、半分くらい食べたところでウォルフレッドの笑い声に気がついた。


 はっと我に返って視線を向ければ、ウォルフレッドが右手を口元に当て、こらえきれないとばかりに、肩を震わせてくつくつ笑っている。


「す、すみません! 何か粗相をいたしましたか!?」


 パイのおいしさに夢中になるあまり、ウォルフレッドの存在すら、頭から抜け落ちていた。さあっと顔から血の気が引く。


「いや、粗相などしておらん。ただ、お前が幸せそうに微笑んだかと思うと、真剣極まりない顔でひたすらもくもくと食べているのでな……。菓子をそれほど必死な形相で食べている者など、見たことがない」


 トリンティアの様子を思い出したのか、ウォルフレッドがふたたび、ふはっと吹き出す。トリンティアはあわあわと口を開いた。


「そ、そのあまりにパイがおいしかったものですから……っ。こんなにおいしいものをいただけるなんて、夢ではないかと……。もし夢だったら、覚める前に全部いただかないともったいないと思って……」


 必死で説明すると、なぜかまた吹き出された。


「夢ではないぞ。そうか、そんなにうまいのか?」


「はいっ!」

 こくこくこくっ、と大きく頷く。


「バターも蜂蜜もたっぷりで、甘くてさくさくしていて……! しかも、蜜漬けの林檎がぎっしり入っているんです! 私、こんなにおいしいもの、生まれて初めて食べました!」


 なんとかしてこの感動を伝えようと、熱弁を振るう。


「ふむ。菓子などあまり食べたいと思ったことはないが、お前がそこまで言うと気になるな」


「はい。まだまだそちらに――」


 まだ幾つものパイが載っている皿を指し示すより早く。


 ウォルフレッドの大きな手がトリンティアの手首を掴む。


 かと思うと、手の中に半分ほど残っていたパイの残りを、一口で口の中に入れていた。


「ああっ!」


 大切なパイが突然消え去った衝撃に、思わず悲鳴がこぼれ出る。


「ふむ……。確かにこれは悪くないな。少し甘すぎる気がしなくもないが……」


 もぐもぐと嚥下えんげしたパイの感想を呟いたウォルフレッドが、トリンティアを見て、ぎょっと目を見開く。


「どうした!?」

「パ、パイが……」


 手の中にあったパイが消えてしまった哀しみに、泣きそうになる。じわりとにじんだ視界に飛び込んだのは、初めて見るウォルフレッドの慌てふためいた顔だった。

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