36 お前に無理を強いぬとは言わん


 乱暴に扉が押し開けられる音に、湯浴みを終え、夜着を身に着けたトリンティアは、イルダ達とともに、さっと床に平伏した。


 いつもより荒々しい足取りでこちらへ来るウォルフレッドの足音に、反射的に身を強張らせる。


 サディウム領にいた頃は、伯爵が荒い足取りで近づいてきた時は、たいていが八つ当たりで蹴り飛ばされる時だった。


 ぎゅっと固く目を閉じ、恐怖に震えそうになるのをこらえる。


 目の前に来たウォルフレッドが、気ぜわしい様子でトリンティアの腕を掴む。痛みさえ感じるほどの強さ。


 ぐい、と引き上げるように立たされたかと思うと、次の瞬間、思いきり抱き締められていた。


 ほう、とウォルフレッドの口から洩れたかすかな吐息が、首筋をくすぐる。


 重い荷を背負い続けていた人夫が、ようやく荷を下ろせたと言いたげな、疲れ果てた溜息。


 苦痛を宿した吐息に、不意にゲルヴィスの言葉が脳裏によみがえる。


「今もずっと、何でもない風を装う陰で、あの方は、苦痛に耐えてらっしゃるよ」


 気づいた時には、トリンティアはウォルフレッドの背に手を回していた。いたわるようにそっと撫でると、広い背中が驚いたように揺れる。


「す、すみませ――」


 不敬だったかと謝罪しようとすると、それより早く、腕を緩めたウォルフレッドに、横抱きに抱き上げられた。


 くるりときびすを返したウォルフレッドが扉へ向かおうとすると、イルダがさっと立ち上がり、乱暴に開けた反動で締まっていた扉を恭しく開ける。


 と、ウォルフレッドがふと足を止めた。


「イルダ。鶏がらの生徒ぶりはどうだ? 十日でものになりそうか?」


 ウォルフレッドの問いに、緊張が身体に走る。


 ベラレス公爵の招待状を受け取ってから湯浴みの時間までずっと続いた礼儀作法の授業の間、イルダは淡々とした口調で山ほど指導してくれたものの、一言もトリンティアを褒めたりしなかった。


 「どうにもなりません。早々に諦めたほうがよろしいかと」と言われたらどうしよう。ウォルフレッドを落胆させ、怒らせてしまうに違いない。


 トリンティアが身構えていると、イルダが感情の読めない表情で口を開いた。


「はい。おそらく間に合うかと思われます。意外と筋がよいようでございますから」


「え……?」


 思いがけない言葉に、声がこぼれる。心が舞い上がるより早く、イルダが釘を刺す。


「もちろん、指導せねばならない点は、まだまだ山のようにございますが」


 と、イルダが珍しくかすかに笑みを浮かべた。


「陛下。よろしければ、トリンティアと菓子を食べていただけますか?」


「菓子?」


 ウォルフレッドの眉がいぶかしげに寄る。


「はい。トリンティアはほとんど菓子を食べたことがないそうなのです。ベラレス公爵のお茶会で、どのような菓子が供されるのかわかりませんから。パイなど、美しく食べるのにコツがいるものは、事前に手本を見せておきたいのですが……」


 イルダが自分の腹を片手で押さえる。


「この年では、量を食べるのはきつうございまして。わたくしの代わりに、陛下に手本を務めていただければ、と」


「……なるほど」


「陛下さえよろしければ、今すぐご用意してお持ちいたします」


 恭しく進言したイルダに、ウォルフレッドが諦めたように吐息する。


「……お前にはかなわんな。では、持ってこい。先に部屋へ戻っている」


 短く命じたウォルフレッドが歩き出す。廊下に出たところで、トリンティアはおずおずと問いかけた。


「あ、あの、よろしいのですか?」


「何がだ? はっきり言え」


「そ、その。一日に二度もお菓子をいただけるなんて……」


「ん? 食えそうにないのか?」


「いえっ! いただきます!」

 反射的に即答してから我に返る。


「で、でも、私などがそんな贅沢ぜいたくをさせていただいてよいのでしょうか……?」


 菓子なんて、年に数度のお祭りの時に、エリティーゼがこっそり持ってきてくれたものしか食べたことがないのに。一日に二度も食べられるなんて。夢か何かだろうか。


「ば、ばちが当たりませんか……?」


 トリンティアの疑問に、ウォルフレッドが呆れたように鼻を鳴らす。


「皇帝であるわたしが許しを与えているのに、他の誰がお前を罰するというのだ?」


「そ、それはそうなのですが……」


「だが、お前が自分から食べると言うのは珍しいな。いつも遠慮して、鳥のえさかと思うほど少ししか食べぬのに」


「い、いえ! あれでも十分、おなかいっぱいになるまでいただいております!」


 いつもの食事では、ゲルヴィスが「嬢ちゃん、もっと食え。そんなんじゃ、いつまでたってもおっきくなれねぇぞ」と、遠慮するトリンティアにお構いなしに、皿にあれこれ盛ってくれる。


 食べ過ぎておなかが破裂するのではないかと、毎回、心配になるほどだが、よく食べるウォルフレッド達にしてみれば、ささやかな量なのだろう。


「ならばよいが……。前にも言ったように、もう少し、肉をつけろ。せめて、鶏がらから骨付き肉くらいになれ」


「で、ですが……。その、陛下は重くて困られませんか……?」


 くじいた足はもう痛くもなんともないのだが、ウォルフレッドはかたくなにトリンティアを抱き上げて運ぶ。が、いくらトリンティアがせっぽちとはいえ、人の身体は重い。毎日書類仕事で腕を酷使しているのに、大丈夫だろうかと心配になる。


 不安そうに問うたトリンティアに、ウォルフレッドが小さく吹いた。


「お前が重いわけがなかろう。そのような心配は不要だ。お前は知らぬだろうが、銀狼の血を引く者は、常人よりかなり力が強いのだ。運ぼうと思えば、わたしより体格のよいゲルヴィスとて、楽々運べるぞ? ……運ぶ気はないが」


 ゲルヴィスをお姫様だっこしているウォルフレッドを思わず想像してしまい、吹き出しそうになる。


「お前など、たいした重さではない。まりのように投げて受け止めることもできるぞ」


 言うなり、ウォルフレッドがトリンティアを軽く放り投げようとする。


「ひゃっ!?」


 突然の浮遊感に、トリンティアは思わずウォルフレッドの首にしがみついた。

 ふわり、と麝香じゃこうの甘い香りが鼻に届く。


「冗談だ」


 ウォルフレッドが笑うが、びっくりしてそれどころではない。ウォルフレッドがこんなおふざけをするなんて、思ってもみなかった。


 抱き上げられてただでさえ速くなっている心臓が、さらにばくばく騒ぎ出す。


「もしわたしに変な遠慮をしているのなら、そんなものは不要だ。それよりも、お前が痩せている方が心配だ。体調を崩されてはかなわんからな」


「そ、それは大丈夫だと思います……。サディウム領でも、仕事を休んだことはありませんでしたし……」


 しがみついてしまっていたウォルフレッドから身を離しながら答える。


 正確には、どんなに体調が悪くても、休ませてもらえなかったのだが。休んで折檻せっかんされるくらいなら、いつも以上に時間がかかっても働いていた方がましだ。それなら食事を抜かれることもないし、機嫌を損ねたサディウム伯爵に蹴り飛ばされるくらいで済む。


 告げた瞬間、碧い目が不愉快そうに細くなる。


「わたしをサディウム伯爵などと一緒にするな」


 低い声に、思わず身体が強張る。


「サディウム伯爵のことだ。体調が悪かろうと、関係なく働かせていたのだろう? お前は、そんな下衆げすとわたしが同じだと?」


「いいえ!」

 トリンティアは必死で首を横に振る。


「陛下がサディウム伯爵と同じだなんて、まったく思っておりません!」


「ならばよい」


 満足したように頷いたウォルフレッドが、トリンティアをさらに抱き寄せる。


「お前に無理をいぬとは言わん。だが、不調を感じたらすぐに言え。お前はわたしの大切な『花の乙女』なのだから」


 ――大切な。


 ウォルフレッドの言葉が、夜空の星のように、胸の中できらきらと輝く。


 そんなことを言ってくれる人なんて、義姉のエリティーゼ以外、誰も現れないと思っていた。


「サディウム領を出れば、あなたを大切にしてくれる人に出逢えるわ、きっと」


 エリティーゼの祈りを込めた言葉が、耳の奥でこだまする。


 いつか、トリンティアも出逢える日が来るのだろうか。想う人と結ばれるエリティーゼのように――、


「どうした?」

「い、いえっ」


 思考が形を成す前に、ウォルフレッドに問われ、我に返る。


「何でもございません。その……。ありがとう、ございます」


 礼を言うと、思いがけないことを言われたとばかりに、ウォルフレッドが目をまたたかせた。と、そこで私室へ着く。

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