33 わたしだけを見つめていればよい


「あ、あの陛下。本当にもう、足は痛くありませんので……」


「いいからお前は大人しく運ばれていろ」


 すげなく告げるウォルフレッドの足取りは緩まない。


 少しでも目立たずにいられはしないかと、トリンティアは無駄と知りつつ、ウォルフレッドの腕の中で身を縮めた。


 ヴェール越しにトリンティアに突き刺さる視線が痛すぎる。

 すれ違う全員が全員、幽霊でも見たかのように驚愕の表情で二度見するのだから。


 が、ウォルフレッドはまったく頓着とんちゃくする様子もなく、すたすたとトリンティアが通ったこともない廊下を進んでいく。


「あの、陛下。どちらへ行かれるのですか……?」

「もう着く」


 答えたウォルフレッドが、突き当たりの大きな扉を器用に肩で押し開ける。隙間から、まばゆい光が差し込み。


「わぁ……っ」


 眼下に広がる光景に、トリンティアは思わず声を上げた。


 扉の先は広いバルコニーだった。精緻せいちな彫刻が施された手摺てすりの向こうには、王都の街並みが広がっている。


 まるで実りを迎えた麦畑のように、遥か遠くまで連なる家々の屋根。馬車が何台も走る広い大通り。道を行き交う人々の姿は豆粒のように小さいが、活気がここまで届きそうな気がする。


 サディウム領から王都に来た時も呆気あっけにとられたが、あの時は緊張と不安で、景色を楽しむどころではなかった。


「すごい……」


 感嘆のあまり、思わず呟きをこぼすと、くすりとウォルフレッドが笑う気配がした。


「す、すみませんっ」

 ぽけー、と開けっ放しになっていた口を慌てて閉じる。


「ん? 何を謝ることがある?」


 ウォルフレッドの碧い瞳が、宝物を見つめるように眼下に広がる王都に向けられる。


「往時の盛況にはまだ及ばぬが、これでもかなり復興したのだぞ。それを褒められるのは、素直に嬉しい」


 いつもより優しい、わずかに弾んだウォルフレッドの声。


 思わずトリンティアはウォルフレッドの顔を見上げた。


 秋の午後の穏やかな陽光に白銀の髪をきらめかせるウォルフレッドは、まるで彼自身が光を放っているかのようで、見ているだけで目がくらみそうになる。


「どうした?」


 問われて、ウォルフレッドに見惚みほれていたことに気づき、ぼっと顔が沸騰ふっとうする。


「い、いえ……」

 慌てて再び眼下の街並みに視線を落とす。


 ウォルフレッドの言う通り、よくよく見れば、建築中だったり修理中の家が多い気がする。皇位争いの戦乱の中で、被害を受けた家かもしれない。そして。


「あの、陛下。あれは……」


 トリンティアはバルコニーのすぐ下に見える王城の敷地の一角を指さした。


 あれは何だろうか。半円形の巨大な野外劇場のようにも見えるが、舞台部分はなく、代わりに半円の両側から階段が伸びており、弧の中央の一番高い部分のバルコニーで出会う構造になっている。


 全体が白い大理石で造られているため、陽射しを浴びて、まるで輝いているかのようだ。修復作業でもしているのか、何人もの職人が忙しそうに働く姿も見えた。


「ああ。あれがお前に見せておきたかったものだ」


 トリンティアの視線を追ったウォルフレッドが鷹揚おうように告げる。


「お前には、あそこのバルコニーに立ってもらうからな」


「……え?」

 あっさり告げられた言葉に、思考が止まる。


 言われた内容を理解した途端、


「ええぇぇぇっ!?」

 と、すっとんきょうな悲鳴が飛び出した。


「む、無理です! だ、だってあそこ、人がいっぱい入るんですよね!? そんな所に、わ、私なんかが立つなんて……っ! 絶対に粗相そそうをするに決まっています!」


 血の気の引いた顔でぶんぶんとかぶりを振る。が、ウォルフレッドの返事はにべもない。


「できんとは言わせん。やれ」


 冷ややかな圧を宿した声に、ひいぃぃぃっ、と心の中で悲鳴を上げる。

 と、ウォルフレッドが苦笑した。


「別に、大したことはしなくていい。あの階段を上がって、バルコニーでわたしの肩に手を置くだけだ。子どもでもできる。貴族達が大勢いるが、そんなもの、芋とでも思っていればよい」


「そ、そんな風にはとても思えませんっ」


 怯えてぷるぷるとかぶりを振る。


 人が多いというだけでも緊張するのに、それが貴族達だなんて、想像するだけで気を失ってしまいそうだ。と。


「おい。わたしを見ろ」


 強い声に、導かれるようにウォルフレッドを見上げる。

 碧い瞳が、真っ直ぐにトリンティアを見つめていた。


「階段を登る時は、ゲルヴィスが隣についている。上に着けば――」


 不意に、ウォルフレッドが微笑む。いつもつけている麝香じゃこうの香りのように甘く。


「その時は、わたしだけを見つめていればよい。そうすれば、余計なものなど目に入らぬだろう?」


「は、はい……」


 傲慢ごうまんなほどの自信にあふれた言葉に、引き込まれるように頷く。


 確かに、ウォルフレッドを見つめていれば、何もかもが夢見心地の間に終わってしまいそうな気がする。いや、そんなふわふわした気持ちでは、かえってうっかりやらかしてしまうのではなかろうか。


「あそこで行う『天哮の儀』は、わたしの皇帝としての力を示し、我が治世に問題はないと貴族達に納得させるために、必要不可欠の儀式なのだ。絶対に、何があろうと失敗は許されん」


 表情を引き締めたウォルフレッドが、固い声音で告げる。


「そして、銀狼の血を引く皇帝に祝福を与えられるのは――。『花の乙女』である、お前しかおらぬのだ」


「わ、私だけ、ですか……?」


 ああ、とウォルフレッドが迷いなく頷く。


「私、だけ……」

 ウォルフレッドの言葉をみしめるように、もう一度、呟く。


 トリンティアは首を巡らせると、眼下に広がる街並みを、もう一度見下ろした。


 故郷のサディウム領でも見たことがない、立派でにぎやかな街並み。

 高台にある王城から見る街並みは、まるでおもちゃのようにも見える。


 だが、あの屋根の下ひとつひとつに誰かの大切な家族がいて、日々の暮らしが営まれていて……。


「あの、陛下……」


 大勢の貴族達の前に出るなんて、考えるだけで足が立たなくなるほど、恐ろしい。けれど。


「わ、私がちゃんと『花の乙女』として役目を務められたら……。もう、いくさが起こらずに済みますか……?」


 ウォルフレッドを見上げて問うと、碧い瞳が虚を突かれたように瞬いた。と、すぐに力強い頷きが返ってくる。


「未来に何が起こるかなど、誰にもわからぬ。ゆえに、決して戦を起こさぬと断言はできん。だが」


 ぎゅっ、と力強く抱きしめられる。トリンティアの不安をすべてかしてしまうかのような、あたたかな腕。


「二度と戦を起こしたくないと考えているのは、わたしも同じだ。わたしの力が及ぶ限り、そのような事態は起こさぬと、お前に誓おう」


 きっぱりと告げたウォルフレッドの面輪が、不意に近づく。かと思うと。


「っ!?」


 ちゅ、と優しく額にくちづけられ、思考が沸騰ふっとうした。


「なっ!? なななな……っ!?」


 叫びたいのに、水に揚げられた魚のようにあえぐばかりで、うまく声が出てこない。

 火が出そうなほど顔が真っ赤になっているのが、見なくてもわかる。


「ん? 誓いのくちづけだけでは不満か?」


 ウォルフレッドが首をかしげる。銀の髪が陽光をはじいて柔らかにきらめいた。


「それとも……」

 ウォルフレッドの形良い眉が心細げに下がる。


「わたしにくちづけられるのは、額であっても嫌か?」


 トリンティアは答えられない。

 そもそも、不満とかそういう問題ではなく……っ! と訴えたいのに、言葉にならない。


 けれど同時に、いつも自信に満ちあふれているウォルフレッドに、こんな不安げな顔をさせたくなくて、わななく唇を必死に動かす。


「し、心臓が壊れそうになるのです……っ」


 半分、泣きそうになりながら訴えると、ウォルフレッドがふはっ、と吹き出した。


「そうか。それは困るな」


 こくこくこくっ、と勢いよく頷く。こうして抱き上げられているだけでも、ばくばくと心臓がうるさくて、ウォルフレッドにまで聞こえるのではないかと心配なのに。


 と、ウォルフレッドが眉を寄せた。


「驚きのあまり、気を失われても困るな。お前にはまだわたしが――」

「陛下! こちらにいらっしゃいましたか!」


 ばたん、と扉の重い音がしたかと思うと、セレウスのあせった声が響く。


「何があった?」


 いつも冷静沈着なセレウスの珍しく慌てた様子に、ウォルフレッドがぎゅっと眉を寄せる。


「それが……」


 一つ大きく息を吐き、呼吸を整えたセレウスが、ウォルフレッドを見つめ、固い声で告げる。


「ベラレス公爵より、陛下へ茶会への招待状が届いております」


「ベラレス公爵から?」


 いぶかししげな声で呟いたウォルフレッドが、セレウスが恭しく差し出した封筒を手に取る。


「お、下ります! 下ろしてください!」


 さすがにトリンティアを抱きあげたままで手紙は読めまい。下ろされたトリンティアは、さっとウォルフレッドの後ろに控えようとした。が。


「おい。離れるな」

 はっしと腕を掴んだウォルフレッドに、抱き寄せられる。


「ひゃっ!?」


 とす、とウォルフレッドの胸板にぶつかった拍子に、麝香じゃこうの香りが鼻をくすぐった。


 片腕をトリンティアに回して抱き寄せたまま、ウォルフレッドが封蝋ふうろうを押された封筒を開ける。


 皇帝宛の手紙を読むわけにはいかないと、トリンティアは慌てて顔を伏せた。

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