32 『冷酷皇帝』の忠臣は真夜中に語らう


「彼女とどんな話をしたのです?」


「んあ?」


 深夜、王城内の自室に戻ろうとしていたゲルヴィスは、廊下で出会ったセレウスに問われた。


 「彼女」が誰を指しているかなど、問わずともわかる。


 ゲルヴィスはにやりと唇を吊り上げて、常に冷徹な表情を崩さない同僚を見た。


「お前が他人のことを気にするなんて、珍しいじゃねぇか。お前も嬢ちゃんに興味があんのか?」


「陛下の治世を盤石にするための存在ということなら、この上なく興味深いと申し上げておきましょう。彼女が『花の乙女』として申し分なく機能するかどうか。『天哮の儀』の成否、ひいては陛下の治世はそこにかかってくるといっても過言ではありませんから」


 表情一つ変えず淡々と答えたセレウスに、ゲルヴィスは鼻を鳴らす。


「つっまんねぇ答えだな、おい」

「面白い、面白くないという問題ではありませんから」


「へーへー。未来の銀狼国のためになるかならねぇか。大局を見据えろ、だろ? わかってるって」


 うんざりしながらゲルヴィスはセレウスを見やる。


 セレウスがウォルフレッドに仕え始めたのは、約二年前――前皇帝が跡継ぎの皇太子を指名しないまま、夜伽の相手と同衾中に急死した直後だった。


 対応したウォルフレッドの前で恭しく一礼し、セレウスは言い放ったのだ。


「わたくしが主と見込んだ銀狼の血を引く御方は、ウォルフレッド様、あなただけでございます。腐りきった貴族どもからまつりごとを取り戻し、銀狼国を正してくださるのでしたら、わたくしがあなた様を次代の皇帝にしてみせましょう」


 と。

 ゲルヴィスは今でも考えずにはいられない。


 もしあの時、ひとつでもボタンを掛け違えていたら――。


 前皇帝が跡継ぎを決めぬまま急死しなければ。


 その直後に、王弟の地位を危険と断じた誰かにウォルフレッドの父、シェリウス候が暗殺されなければ。


 セレウスがウォルフレッドの前に現れなければ。


 ウォルフレッドはおそらく、皇帝になっていなかっただろうと。


 ゲルヴィスはかぶりを振って、らちもない想像を振り払う。

 今さら、変えようのない過去の「もしも」を考えても、何の役にも立たない。


 もしシェリウス候を救えていたら。貴族達にさらわれる前に、一人でも『花の乙女』を確保できていたら。

 そんな「もしも」を悔やむ時間はとうに過ぎた。


 ゲルヴィスにできることはただ、ウォルフレッドがどんな立場であろうとも、主と定めた方を守るため、剣を振るうだけだ。


 だが、叶うならば。


「俺は陛下の治世のため以外にも、嬢ちゃんには期待してるんだよ」


 ウォルフレッドの前では決して口に出せないが、心の奥底では願っている。


 いつか、敬愛するあの方が、屈託くったくなく笑える日がきますようにと。

 かつて、ゲルヴィスが幼いウォルフレッドの剣の相手をしていた時のような、まぶしい笑顔で。


 『冷酷皇帝』と呼ばれるようになった今、それがどれほど難しいのか、知っている。


 けれど、たったひとりの前だけでもいいから。

 たとえそれが、ゲルヴィスでなくとも。


「陛下のご不調を癒し、健康を維持するという点では、わたしも彼女には期待しておりますよ。ですが」


 セレウスの氷を連想させる薄青い瞳が、冷ややかな光を宿す。


「それ以上のことは、彼女にも、他の者にも求めておりません。『花の乙女』は、あくまでも陛下の健康維持にのみ用いるべきもの。前皇帝のように色香に惑わされ、まつりごとないがしろにするなど――言語道断です」


 一瞬、殺意ともとれる蒼い炎がセレウスの瞳の中で燃え上がる。


 セレウスの父親は、色欲に溺れ、政を投げ出した前皇帝に忠言し、不興を買った末に、政争に巻き込まれて処刑された。


 セレウスにとって、ウォルフレッドが女色にふけって政務を顧みなくなるなど、悪夢以外の何物でもないだろう。


「わたくしは、陛下が銀狼国のためとなる皇帝である限り、この身のすべてを捧げてお仕えいたしましょう。ですが……。陛下が、前皇帝のように銀狼国にあだなす皇帝となった時。その時は、わたくしが陛下を皇位から追い落としてみせます」


 ウォルフレッドの即位が決まった時、セレウスが祝いの言葉に続いて告げたのがこれだ。

 目をくゲルヴィスをよそに、ウォルフレッドは悠然と笑ってみせた。


「かまわん。前皇帝と同じ俗物にちる気はない。だが、権力とは毒をはらんだ蜜のようなもの。もしわたしが皇帝にふさわしくないとお前が断じた時には、遠慮なくわたしを皇位から引きずり落とすがよい」


 と。ゲルヴィスが呆れ混じりに二人につっこんだのは言うまでもない。


 ゲルヴィスには、あのウォルフレッドが前皇帝のように堕落する姿は想像できないが、もし万が一、ウォルフレッドが銀狼国を私物化した時、セレウスは一切のためらいなくウォルフレッドを切り捨てるだろう。


 セレウスはゲルヴィスのように、ウォルフレッド個人に仕えているわけではない。セレウスが仕えているのは「己の理想から外れぬ皇帝」なのだから。


 と、セレウスが冷笑をひらめかせる。


「その点についていえば、あの貧相さも役に立っているといえますね。陛下がしかるべき貴族の家から妃をめとられるまでは、寵姫は不要ですから。『花の乙女』として人前に出すのは少々難ありですが、そこはイルダ殿の手腕で、多少はごまかしがききましょう。それよりも、陛下がおぼれようのない魅力のなさのほうが重要です。……一刻も早くご回復いただくために、多少は手を出していただきたいものですが」


 トリンティア本人が聞けば怒りそうことを……と思い、ゲルヴィスは心の中で「いや」と呟く。


 もともとの性格なのか、下女として暮らしてきた性質がしみついているのか、子鼠こねずみのように常に怯えているトリンティアなら、セレウスの失礼極まりない台詞にも、怒るどころか、「申し訳ございません!」と震えながら平身低頭することだろう。


 顔立ち自体は愛らしいのだから、常にびくびくおどおどと人の顔色をうかがって震えているところが直れば、もう少し見られるようになるだろうに、ともったいなく思う。


「それで、どうなのです? 陛下のお身体は、あなたの目から見て、まだ不調から回復されていないと感じますか?」


 セレウスの問いに、ゲルヴィスは思惑の海から引き上げられた。


「まだだな」

 簡潔に断言する。


「陛下が『花の乙女』も『乙女の涙』もなしで、何か月の間を過ごしてこられたと思っている? 半年以上だぞ? 俺はむしろ、気力だけで今までよくもってらしたと思うよ。……並みの人間なら、耐えられなかっただろうな」


 ゲルヴィスは無力感にさいなまれて息を吐き出す。ゲルヴィスとて、剣の腕でも、兵の指揮でも、そうそう他の者に後れを取るとは思っていない。だが。


 皇族だけが持つ銀狼の力だけは別格だ。あれは、一瞬で戦場を引っ繰り返す。


 ――その身を襲う、多大なる苦痛と引き換えに。


 ゲルヴィスがもっと強ければ。もっと用兵を巧みに行えれば。ウォルフレッドに不要な苦痛を味わわせずに済んだのではないか、と。


 苦い思いは、胸の奥深くにまで刺さったとげのように、今も不意に甦ってはゲルヴィスをさいなむ。


 もしかしたら、トリンティアに期待を寄せているのは、ただゲルヴィスが己の傷を癒したいがためなのかもしれない。


 ゲルヴィスは大きく吐息して、胸中にわだかまるもやを吐き出す。


 己の思惑など、どうでもよいのだ。敬愛するウォルフレッドが、進みたいと思う道を望むままに進んでくれれば、それで。


 そのために、ゲルヴィスはウォルフレッドの剣となったのだから


「念のため確認しておきますが、『天哮の儀』までには、間に合うのでしょうね?」


 否定の言葉は受け付けぬと言いたげな厳しい表情でセレウスが尋ねる。


「ああ。くわしい体調は陛下に確認するほかないが、陛下もその点は重々ご承知だろう。そこの加減を間違える方じゃない。それにまあ、あれだけ四六時中くっついていりゃあ、半月後の『天哮の儀』には、かなり復調なさっているだろうさ。今は、耐えていたところに『花の乙女』を得て、反動がおつらいようだが……」


 ゲルヴィス自身は銀狼の血がもたらす苦痛を味わったことはないが、ウォルフレッドに幼い頃から仕えているため、他の貴族よりは遥かにくわしい。


「他でもないあなたが言うのでしたら、信じましょう。わたしも、下手な進言を陛下にして、ご機嫌をそこねたくはありませんから」


「と言いつつ、必要だとおもったら、どんな苦言だろうと策だろうと、遠慮なく進言するんだろうが」


 はんっ、と鼻を鳴らすと、「当然です」と即答された。


「たとえ、陛下のご不興を買おうと、銀狼国をあるべき姿へと戻す。それが、わたくしの使命ですから。そのためには、意に染まぬことでも陛下にしていただかなければ」


 セレウスの表情は、どこからどう見ても本気だ。と、ゲルヴィスのしかめつらを見て、セレウスが言を継ぐ。


「もちろん、陛下にご説明する労は惜しみませんよ」


「当たりめぇだろ? あと、お前の進言を受け入れるかどうかは、陛下のご判断次第だからな」


 念のため釘を刺すと、セレウスは「その点も承知しております」と、悠然と頷いた。


「わたくしはあくまで陛下の忠実なる手足。もし陛下がご自分で判断なさらず、わたくしの進言を鵜呑うのみにする御方でしたら、わたくしはあの方を主に選んでおりません。臣下の言うがままにまつりごとを動かすなど、前皇帝と同じではありませんか。そのような愚を、わたくしが犯すはずがないでしょう?」


 確信をもって告げるセレウスに、ゲルヴィスは微妙な気持ちになる。


 今の言葉だけ聞けば、セレウスほどの忠臣はいないように思われる。だが、その実、セレウスの忠誠は、ウォルフレッドではなく、銀狼国そのものに向けられているのだから。


「……お前と陛下の蜜月がいつまでも続くことを願っておくよ」


 溜息ためいきまじりに告げると、妙なところでうといセレウスが眉をひそめた。


「蜜月? わたくしは陛下と恋仲になった覚えはありませんが」

「俺だって、そんな不気味な想像、しちゃいねぇよ!」


 ゲルヴィスはどっと疲れを感じて、はぁっ、と吐息する。


「もういい。俺も部屋に戻って寝る。お前もあんまり無理すんなよ」


 若き宰相さいしょうとして、内政を一手に担うセレウスがいったいいつ寝ているのか、王城の従者達の間で、ひそかに『不眠の宰相』を呼ばれているのを、ゲルヴィスは知っている。


 ぞんざいに片手を上げて、ゲルヴィスはセレウスに背を向けた。

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