30 銀狼を鎖から解き放つもの


「ああ。即位したものの、陛下の政治的基盤はまだまだ弱い。その上、腐った貴族どもが、なんとか陛下の権力を削ろうと躍起やっきになっているからな」


「それほど、陛下と他の貴族の方々の確執は深いのですか……?」


 トリンティアの問いに、ゲルヴィスが厳しい顔で頷く。


「前皇帝の時に、さんざん甘い汁を吸ってきたからな。今さら、不正に手を染めずに品行方正にと言われても変われねぇのさ」


 ゲルヴィスが苦い声で続ける。


「前皇帝は『花の乙女』にうつつを抜かして、ろくにまつりごとを顧みなかった。おべっかを使う貴族どもに権力を与え、腐敗するに任せ……。真摯しんしに国の行く末を思い、忠言する者ほどうとまれ、遠ざけられた。陛下のお父上や、セレウスの父親のようにな」


 一瞬、ゲルヴィスの表情が切なく歪む。


 懐かしそうに。同時に泣きだしそうに。


「貴族どもの反発を抑えるために、どれほどの苦痛にさいなまれようと、あの方は決して弱いところを見せられない。見せれば即座に突き上げられるからな。『花の乙女』を得ていない皇帝など、不安が大きすぎて認められないと。まあ、貴族どもは内心、陛下が苦痛に潰れるのを、今か今かと手ぐすね引いて待ってやがるんだろうが……。ともかく」


 おほん、とゲルヴィスが咳払いする。


「『花の乙女』は、陛下の治世を盤石にするためには、不可欠の存在なんだ。つまり嬢ちゃん、あんたがな」


「え……っ!?」


 真っ直ぐ視線を合わせて告げられ、言葉に詰まる。

 トリンティアにかまわず、ゲルヴィスが続けた。


「『花の乙女』がいない皇帝は、鎖に繋がれた狼と同じだ。どれほど強くても、その力を自由に振るえねえ。鎖に繋がれたまま、餓死するのを待つだけだ。だが」


 ゲルヴィスが、力強い声を紡ぐ。


「陛下は、嬢ちゃんと出逢えた。嬢ちゃんが陛下のおそばにいる限り、陛下は思う存分、己の信じるままに動くことができる。俺からも頼む。どうか、陛下のおそばで、あの方を癒してさしあげてくれ」


 言うなり、大きな身体を折りたたむようにして頭を下げられ、トリンティアは大いに慌てた。


「ゲ、ゲルヴィス様! お願いですからおやめください! わ、私なんかに頭を下げられるなんて……っ!」


 トリンティアは椅子から立ち上がると、ゲルヴィスの前にひざまずき、肩に手をかけて起こそうとする。が、非力なトリンティアの力では、びくとも動かない。


 服の上からでも筋肉が張りつめているのがわかる、がっしりした肩。


 不意に、初日にみたウォルフレッドの身体が脳裏によみがえり、心臓がばくんと跳ねる。


 傷だらけの引き締まった身体。皇位争いを勝ち抜き、皇帝の座を射止めた人。


 本当に、トリンティアなどが、そんな人の役に立てるのだろうか?


 ようやく身体を起こしたゲルヴィスが、にかっと笑う。


「俺は嬢ちゃんには期待してるんだ。嬢ちゃんと会ってからの陛下は機嫌がいい。皇帝になってからというもの、冷笑以外の笑顔は、とんと見せなくなってらしたからな」


(機嫌がいい? あれで?)


 真っ先に思い浮かぶのは、いつも厳しく表情を引き締めた凛々しい面輪だが、不敬になりそうなことを口に出せるはずもない。


 トリンティアの微妙な表情を読んだのか、ゲルヴィスが、ぶはっと吹き出す。


「まあ、陛下のおそばにお仕えしてりゃあ、嬢ちゃんもそのうちわかってくるさ。いやほんと、嬢ちゃんが来てからというもの、かなり表情豊かになられたんだぜ?」


「は、はあ……」


 何と答えればいいかわからず、曖昧あいまいに頷くと、ゲルヴィスにわしわしと頭をでられた。


「まあ、これは俺の感傷みたいなもんだから気にすんな。嬢ちゃんは、気負わずそのままで陛下にお仕えしてくれりゃあいい」


「き、気負わず、ですか……」

 無意識に声が情けなく弱まる。


 ウォルフレッドを前にして、緊張せずにいるなんて不可能だ。


 だが、トリンティアなどを気遣ってくれるゲルヴィスの期待を裏切りたくないとも思う。


「な、慣れる日が来るかはわかりませんが、が、頑張ります……」


「おう。もし困ったことがありゃあ、何でも相談してくれりゃあいいからよ。あんまり陛下が怖すぎるんなら、小さい頃の失敗談でもなんでも教えてやるよ」


 豪快に笑うゲルヴィスにつられ、トリンティアも笑みをこぼす。


 ウォルフレッドの情けない姿など想像もつかないが、ほんの小さい頃なら、微笑ましい思い出もあるのだろう。と。


「おい。何を馬鹿笑いをしている」


 扉が開く音と同時に、ウォルフレッドのいぶかしげな声が聞こえてきた。トリンティアはさっと床に平伏する。


「おや陛下。お早いお戻りで。心配なさらずとも、単に嬢ちゃんと楽し~く話してただけっすよ?」


 なあ嬢ちゃん? と振られて、トリンティアは顔を上げてこくこく頷く。


 が、ウォルフレッドの表情は緩むどころか、眉間の皺がいっそう深くなる。気難しい顔で歩み寄ったウォルフレッドが、床に座るトリンティアを見下ろした。


「なぜ、床にいる?」


 え? と思う間もなく、身を屈めたウォルフレッドがトリンティアを抱き上げる。


「ひゃっ!?」


「足にさわらぬよう、椅子から動くなと言ったはずだが?」


「そ、それは……」

 ゲルヴィスとのやりとりをどう説明すればよいのだろうか? それより。


「あ、あのっ、もう足はほとんど痛くありませんから、下ろしてくださいませ!」


 椅子から下りた時も、足の痛みはわずかしか感じなかった。こんな風に抱き上げられる必要はまったくない。

 が、ウォルフレッドの返事はにべもない。


「ほとんどということは、まだ少しは痛むということだろう? 完治が遅くなっては、わたしが困る。この後はお前が湯浴みだろう。ついでだ、このまま運ぶぞ」


「えぇっ!? あの、本当に大丈夫ですので……っ」


 トリンティアの訴えを無視して、ウォルフレッドがすたすたと歩き始める。

 ぶはっとゲルヴィスが吹き出す声が追いかけてきた。


「ゲ、ゲルヴィス様! 陛下を説得してくださいませ! 私はもう、大丈夫ですから……っ」


 何度もされているとはいえ、ウォルフレッドに横抱きにされるたび、心臓が壊れるのではないかと不安になる。恥ずかしくて、顔が上げられない。


 かぁっと身体中が熱いのは、風呂上がりのウォルフレッドの腕の中にいるせいだろう。体温であたためられた香油がいつも以上に甘く蠱惑的こわくてきに香り、頭がくらくらしてくる。


「……で、お前はいつまでついてくるつもりだ?」


 淀みなく歩きながら、ウォルフレッドが後をついてくるゲルヴィスに冷ややかに問いかける。


「え? だって、こぉんな楽しい陛下を見逃すなんてもったいないこと、できないっすから。それに、嬢ちゃんが湯浴みをしている間、陛下が廊下で待っているわけにもいかないでしょう?」


 ゲルヴィスが明らかに笑いをこらえた声で答える。ゲルヴィスの言葉にトリンティアは固まった。昨日みたいに、帰りまで抱き上げられて運ばれてはかなわない。


「陛下! 私でしたら、本当に大丈夫ですので! 陛下のご公務のお邪魔をしては申し訳なさすぎますから……」


 ウォルフレッドと出逢ってまだたった三日だが、ウォルフレッドは夜の睡眠を除いて、いったいいつ休んでいるのだろうと心配になるほど働きづめだ。


 こんなに働く高貴な方など、初めて見た。サディウム伯爵は、基本、領地の運営は家令や荘園管理人に任せ、毎日をいかに優雅で安楽に暮らすかに重きを置いていたのだが。


 皇帝という銀狼国で最も高い身分でありながら、ウォルフレッドはまるで使用人のように働き通しだ。これだけ働いていれば、寝つきがよいのも頷ける。


「公務というのなら」


 ふ、とウォルフレッドが口元を緩ませる。


「これも立派な公務のひとつだ。銀狼国をつつがなく統治するために、心身を整えるという意味では」


「お、おそれながら、侍女を運ぶ公務なんて、絶対にないと思います……っ」


 トリンティアの反論に、ゲルヴィスが吹き出す声が重なった。

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