27 泥水の中に一枚だけ


「え?」


 不意に低くなった声に緊張する。


 思わずウォルフレッドを見上げると、予想以上の近さに端正な面輪があった。

 ぱくりと心臓が跳ねる。


「あ、あの……」


 身動みじろぎして逃れようとするが、ウォルフレッドの腕は放れない。


「離れるなと言っただろう?」


「で、ですが……」

 心臓がばくばくと騒いでいる。


「お前を無理やり手籠めになどせんから、安心しろ」

「てっ、てご……っ!?」


 ぼふっ、と頭が沸騰ふっとうする。息を飲んだ身体が、力強い腕に抱き寄せられた。


「だから、せんと言っているだろう。慣れるためにも、このくらい我慢しろ」


「は、はい……」

 皇帝に命じられて否と言えるわけがない。


 せめて、凛々しい面輪を目に入れなければ、少しは動悸どうきも収まるかとうつむいたトリンティアの耳に、ウォルフレッドの低い呟きが届く。


「サディウム伯爵はなぜ、お前を養女にしたのか……。理由を知っているか? お前の両親が何者だったのかも」


「いえ、何も……」


 トリンティアはうつむいたまま、ふる、と首を横に振る。


「昔、聞いた話では、亡くなった母は臨月の身で、ふらりとサディウム領へ来たそうです。そして、私を生んですぐ、産褥熱さんじょくねつで亡くなったと……。生まれてすぐ孤児になった私を憐れんで、伯爵様が私を引き取ってくれたのだと……。そう、聞いたことがあります。ですから、私は、父はおろか、母の名前さえ知らないのです……」


 顔も声も、ましてや思い出の欠片ひとつない生みの母。


 トリンティアが知っているのは、母が村の共同墓地のどこかに葬られているということと、「トリンティア」という名をつけてくれたのは、母だということだけだ。


 書類上はサディウム家の養女であり、エリティーゼという血はつながらぬが優しい姉もいる。


 けれど。


 トリンティアは時折、自分が泥水の中に一枚だけ浮かぶ千切れた水草の葉ではないかと思う。


 他の葉はちゃんと茎につながっているのに、自分だけが足元の定まらぬ泥の沼に立っているかのような不安感。


 ふだんはそんなことまで考えない。毎日、こき使われてくたくたで、考える余裕などなかった。


 けれど、ふとした拍子に。


 夕方、畑から仲良く変える親子を見た時に、兄弟で走り回って遊ぶ子ども達を見た時に。

 伯爵に蹴り飛ばされて、痛みに呻きながら寝る夜に。


 母のことも父のことも何ひとつ知らぬ自分は、この世界でたったひとりきりなのだと、痛いほどの心細さにさいなままれて、泣きたくなる。


 守る者もなく、守ってくれる者もなく、たったひとり。

 それは、なんと寂しく心細いことだろう。


「お前を守ろう」


 不意に、ウォルフレッドの言葉が胸の中によみがえる。


 初めて、トリンティアを守ると言ってくれた人。抱き寄せる腕は力強く、痛いくらい胸が高鳴って逃げ出したいのに、同時に、この上なく頼もしい。


 このあたたかさに、思わずすがりつきたくなるほどに。


「いったい、サディウム伯爵は、どういうつもりでお前を王城によこしたのか……。調べる必要があるやもしれんな」


 低い呟きに、トリンティアは、はっと我に返る。


 無意識のうちに、ウォルフレッドの服を掴みそうになっていた。絹の服に変なしわなどつけては、大変だというのに。


 ごまかすように慌てて口を開く。


「わ、私が王城へ奉公に参ったのは、前に申し上げた通り、エリティーゼ姉様の代わりで……」


「『銀狼国の薔薇』と呼ばれるエリティーゼ嬢をわたしに差し出そうとした理由ならば、たやすく理解できる。美貌でわたしの関心を買うつもりだったのだろう。だが、エリティーゼ嬢ではなく、お前を遣わした理由となると……」


 ウォルフレッドが難しい顔で呟く。


「も、申し訳ございません。私などではなく、エリティーゼ姉様がよろしかったでしょうに……」


 男性なら、誰もが皆、みすぼらしいトリンティアなどではなく、可憐で美しいエリティーゼを求めるだろう。


 申し訳なくてうなだれると、ウォルフレッドが「は?」と声を上げた。


「何を間の抜けたことを言う? お前がよいに決まっておろう?」

「で、ですが、私など、みすぼらしくて、何のお役にも立てなくて……」


「わたしにとっては」


 ウォルフレッドがトリンティアの目を真っ直ぐに覗きこむ。


「『花の乙女』であるお前は、美姫などより、よほど貴重だ。ずっと……探し求めていたのだからな」


 熱のこもった声。その熱が移ったかのように、トリンティアの頬まで熱くなる。


「しかし、サディウム伯爵がわたしに『花の乙女』をよこすはずがない。お前自身が、自分が『花の乙女』であることを知らなかったことと考え合わせると……。いや、罠の可能性も、皆無とは言えんか……」


「罠……?」


「ああ。サディウム伯爵はもともと、反皇帝派だからな」


「え……っ!?」

 ウォルフレッドがあっさり放った言葉は、トリンティアの心を撃ち抜くのに十分だった。


「は、反皇帝派とは……!?」


 人知を超える力を身に宿す皇帝は、銀狼国をあまねくべる天の上の存在で、その権威に逆らう者がいるなど……。トリンティアは、考えたことすらなかった。


 驚くトリンティアに、ウォルフレッドは至極淡々とした口調で告げる。


「言葉の通りだ。サディウム伯爵は元々、第四皇子・レイフェルド派だ。どんな手を使ったかは知らんが、自分の娘をレイフェルドの婚約者にしたくらいだからな。一度はエリティーゼ嬢を王城に差し出そうとしたということは、レイフェルドが行方不明の今、第四皇子派と手を切り、こちら側へすり寄る気かもしれんが……」


「レイフェルド、様……」


 トリンティアはウォルフレッドが口にした名をおうむ返しに呟く。


 次代の皇帝として有望視されていた第四皇子。そして……。エリティーゼのかつての婚約者。


 不意に、ウォルフレッドが牙を見せるように獰猛どうもうに笑う。


「どうした? 慕う姉の婚約者を排したわたしが憎いか? 何事も起こらず、レイフェルドが皇位を継いでおれば、エリティーゼ嬢は皇妃となっていたであろうに。それを瓦解させたわたしが」


 ひやりとした威圧感に息が詰まる。だが。


「いいえ」

 トリンティアはきっぱりとかぶりを振った。


「エリティーゼ姉様はレイフェルド様とのご婚約を望んでおりませんでした。姉様に、本当に想う方との結婚話が持ち上がったのは、婚約が解消されたおかげです。となれば、陛下は姉様の恩人でございます。どうして憎むことがありましょう?」


 きょとんと見返すと、ウォルフレッドが鼻白んだ顔になる。


「……恩人だなどと言われたのは初めてだな」

 呟いたウォルフレッドが、ふ、と表情を和らげる。


「褒美の件といい、今といい……。お前は本当に、予想もつかない言動をするな」


 よしよし、と犬でもでるように髪をすべる手は、驚くほど優しくてくすぐったい。


「しかし……。サディウム伯爵の思惑は、探っておいたほうがいいやもしれんな……」


 ウォルフレッドの呟きは、不穏な響きを伴って、トリンティアの耳にこびりついた。

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