26 咎のない者に謝罪させようとは思わん


 にじんだ視界の向こうで、ウォルフレッドが困ったように眉を下げたのが見えた。


「泣くな。お前に泣かれると、どうすればよいかわからぬ」


「も、申し訳――」

「謝る必要はないといっているだろう?」


 反射的に謝ろうとしたトリンティアの言葉を遮るように、わずかに身を離したウォルフレッドが、大きな手のひらでトリンティアの涙をぬぐう。


とがのない者に謝罪させようとは思わん」


「あの……?」

 わけがわからない。


「お、お怒りではないのですか……?」


 びくびくと尋ねると、あっさり答えが返ってきた。


「怒っているに決まっておろう」

「っ!」


 息を飲んだトリンティアを、ふたたびウォルフレッドが抱き寄せる。麝香じゃこうの香気が甘く揺蕩たゆたう。


「だが、お前にではない」


「え……?」


 気を失っているうちにほどかれ、乱れていた長い髪を、ウォルフレッドの骨ばった手があやすように撫でる。


「わたしが怒りを覚えているのはサディウム伯爵にだ。自分の都合で養女に迎えておきながら、利用価値がなくなった途端、年端としはもいかぬ少女を下女どころか、奴隷のように扱うなど……」


 怒りをはらんだウォルフレッドの声が、ふたたびうなるように低くなる。


「身分をかさに着て他人をいたぶって喜ぶ輩には、反吐へどが出る」


 碧い瞳が苛烈な光を宿す。


「以前から、よからぬ噂を多く耳にしていたが、やはりろくでもない輩のようだな、サディウム伯爵は」


「そう、なのですか……?」


 サディウム領では、伯爵は絶対的な存在で、伯爵の行状に異を唱える者など、一人としていなかった。


「ああ。そのような下衆げすと同列に思われていたとは、不快極まる。……いや。お前を気絶させるほど怯えさせたのだ。わたしも人のことは言えぬな」


「いいえっ」

 トリンティアは思わず声を上げていた。


「陛下は恐ろしいですが……。同時に、お優しい方です! 私などを気遣ってくださったばかりか、足の手当てまで……!」


 必死に言い募ると、ウォルフレッドが虚を突かれた顔をした。かと思うと、ふ、と吐息とともに口元を緩める。


「そうか……。では、もう恐ろしくはないな?」


「え……っ!?」


 問われて、思わず固まる。同時に、ウォルフレッドに抱き寄せられているのを思い出して、かぁっ、と頬に熱がのぼった。


「そ、それはその……っ。やはり、おそれ多すぎまして……っ」


 腕の中から逃れようとすると、逆にぎゅっと抱き寄せられる。


「離れるな」


 ウォルフレッドの指先が優しく髪をいて、片方の耳をあらわにする。無防備になった耳朶にあたたかな吐息がかかった。


「お前が『花の乙女』である以上、今後もお前に苦労をかけることは否めん。だが」


 大きな手が、強張りをほどくようにトリンティアの背を優しく撫でる。


「これだけは、誓おう。わたしはサディウム伯爵のように、無体な暴力をお前に振るうことは決してせぬ。絶対にだ。お前がわたしのそばにいる限り……。お前を守ろう」


 真摯しんしで力強い声。

 と、ウォルフレッドが小さく微笑む。


「どうだ? これでもわたしが怖いか?」

「そ、それは……」


 怖い。たとえ演技と知っていても、謁見の間で貴族達に放っていた威圧は、それが自分に向けられているものではないとわかっていてさえ、震えが止まらぬほどに恐ろしかった。


 だが、同時にウォルフレッドが優しい一面を持っていることも、知っている。


 「守る」だなんてトリンティアに言ってくれた人は、今まで一人もいなかった。


 エリティーゼでさえ、サディウム伯爵の目の届かないところでは助けてくれたものの、正面から伯爵の意に逆らうことはできず……。サディウム家の使用人達も、いつもれ物に触るようにトリンティアを遠巻きにしていて。


 ウォルフレッドは今までトリンティアが経験したことのない近さで優しくふれてくるので、いったいどうすればよいのかわからない。


 優しい。けれども恐ろしい。


 それをどう伝えたらよいかわからず言葉を探しあぐねていると、ウォルフレッドにもう一度、頭を撫でられた。


「答えられぬのならば、無理に答えずともよい。急に印象を変えよと言っても難しかろう。そのうち、慣れてくれればよい。わたしも、お前を怖がらせぬように努めよう」


 子どもをあやすような優しい手つきと声に、ほっとして息を吐き出す。


「だが……。先ほどの話は気にかかるな」

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