25 決して陛下のせいではないのです


 もぞり、とトリンティアが寝返りを打つと、額が硬くて弾力のあるものにぶつかった。


「んん……」


「気がついたか?」


 すぐそばから、安堵したような声が降ってくる。耳に心地よく響く声が誰のものかを理解した途端、一瞬で眠気が吹き飛んだ。


 ぱちりと開けた視界に飛び込んできたのは、トリンティアを見下ろす端正な面輪だ。寝台で眠るトリンティアの隣に座り、書類を読んでいたらしい。


「気分はどうだ?」


 問われて、ようやく頭が動き出す。


 そうだ。綺麗なドレスを着せてもらって、謁見の間で、居並ぶ貴族達ににらまれて、それで――。


「も、申し訳ございませんでした!」


 飛び起き、寝台の上で平伏する。自分がまだ絹のドレスのままだと知って、心臓がさらにきゅぅっと縮む。絶対に変なしわをつけてしまったに違いない。


「な、なんとお詫び申し上げればよいかわかりませんが、誠に申し訳ございません! どうかお許し――」


「待て。少し落ち着け」


 手にしていた書類をサイドテーブルに置いたウォルフレッドが、虚を突かれた声でトリンティアの言葉を遮る。が、落ち着いてなどいられない。


 真冬に裸で外に放り出されたように、がくがくと身体が震える。埋もれそうなほど顔を押しつけた寝台に、いっそこのまま沈んで消えてしまえたらと願う。


 顔に泥を塗られたと、どれほど怒っているだろう。怖くてウォルフレッドを見られない。


「なぜ謝る?」


 静かな声に、トリンティアはびくりと肩を震わせた。


「お前は『花の乙女』としての務めを果たした。むしろ、謝らなければならないのは、お前に気を失うほどの緊張をいたわたしのほうだろう?」


「え……?」


 耳にした言葉が信じられなくて、呆然と顔を上げる。トリンティアを見つめるウォルフレッドの表情はひどく苦い。


「夕べ、お前を傷つけぬと言ったばかりだというのに……。皇帝ともあろう者が約束をたがえるなど、己のふがいなさが情けない」


「違……っ、違いますっ!」

 ぶんぶんぶんっ、と首を横に振る。


「確かにものすごく緊張しましたし、ものすごく怖かったですけれど、あれは陛下のせいではなくて、その……っ」


「その、何だ?」

 言い淀んだ隙をウォルフレッドが突く。


「そ、の……」


 口に出してよいものか迷った末に、唇を引き結ぶ。

 驚きに、いっとき止まっていた震えが、ふたたび襲ってくる。


 と、寝台の上に揃えていた手を、不意にウォルフレッドに握られる。反射的に走った震えを押し留めるかのように、もう片方の手がトリンティアの頬を包んだ。

 強張りをほどくかのような、大きくあたたかな手。


「なぜ、それほど怯える? 『冷酷皇帝』が噂だと知ってなお、わたしが怖いか?」


 『冷酷皇帝』のものとは思えない、痛みをはらんで不安に揺れる声。


 引き込まれるように上げた視線が、碧い瞳にぶつかった。


 帰り道を見つけられぬ幼子おさなごのように揺れるまなざしを見た途端、胸の奥が締めつけられたように痛くなる。


 傷つけられたことは数えきれないほどあっても、誰かを傷つけた経験なんてほとんどなくて。


 どうすればよいかわからぬまま、あわあわと声を出す。


「こ、怖かったのは陛下ではなくて……っ。いえ、演技とわかってさえ、陛下も十分恐ろしかったんですけれど……っ」


 真っ正直に答えてしまい、ウォルフレッドの形良い眉がぎゅっと寄る。


 己の粗忽そこつさに泣きそうになりながら、トリンティアは懸命に説明した。


「こ、怖かったのは、貴族の方々の視線で……っ。まるで、サディウム伯爵が目の前に大勢現れたようで、あまりに怖くて……っ」


「サディウム伯爵?」


 ウォルフレッドの片眉がいぶかしげに上がる。


「なぜだ? サディウム伯爵は義理とはいえ、お前の父親だろう?」

「ち、父上だなんてっ! 恐れ多すぎますっ!」


 激しくかぶりを振った拍子に、頬にふれていたウォルフレッドの手が外れる。


「そんな風にお呼びしたら、どんなひど折檻せっかんを受けるか……っ!」


 身体の奥底からせり上がってくる恐怖に、がくがくと震える。ウォルフレッドの眉間がきつく寄った。


「どういうことだ?」


 固く閉ざした扉をこじ開けるような声。


 心の奥底まで暴くような強いまなざしに、これ以上、隠してはおけないのだと悟る。

 話さなければ、ウォルフレッドはさらに不機嫌になるに違いない。


「サ、サディウム伯爵が、どうして私などを養女にしてくださったのかはわかりません……。な、七歳くらいまでは、エリティーゼ姉様と本当の姉妹のように育てていただいたのです。けれど……」


 ウォルフレッドのまなざしから逃れるように深くうつむき、トリンティアは震えの止まらぬ声を紡ぐ。


「わ、私は役立たずだったんです……っ。ある日突然、そう言われて。何もかも、全部取り上げられて、お前は今日から下女だと言われて……っ」


 幼いトリンティアには、何が起こったのか、まったくわからなかった。


 ただ、サディウム伯爵がおとぎ話で読んだ怪物のように変貌したのが恐ろしくて。それ以上に、大好きな姉と離れなければいけないのが、何より哀しくて。


 涙をぬぐうことも忘れて泣きじゃくっていると、「鬱陶うっとうしい!」と容赦なく蹴り飛ばされた。


「サディウム家の一員だなどと、間違っても思い上がるな! お前のような役立たず、拾わずに餓死させておけばよかった!」


 と。下女として身を粉にして働けば、少しでも怒りがとけるのではないかと期待した。


 けれど、サディウム伯爵の怒りはとけるどころか、少し機嫌が悪いと、容赦なく殴られ、蹴られ……。


 トリンティアが今まで世をはかなまずにいられたのは、ひとえにエリティーゼだけが変わらず、トリンティアを妹として接してくれたおかげだ。


 父親には逆らえないものの、エリティーゼはトリンティアが食事を抜かれてひもじい思いをしていればパンを差し入れてくれ、殴られて腕をらしていれば、手当てをしてくれた。


「で、ですから……」


 震え声はいつのまにか涙声に変じている。下を向いているとこぼれそうになる涙を固く目を閉じてこらえ、トリンティアは指先を掴むウォルフレッドの手を、ぎゅっと握り返した。


「決して陛下のせいではないのです! 私が役立たずで迷惑ばかりおかけしているので、陛下がお怒りになるのも当然――、っ!」


 不意に、ぐい、と腕を引かれる。


 濃厚な麝香じゃこうの薫りが押し寄せたと思った時には、ウォルフレッドに抱き寄せられていた。


「もう、よい」


 ウォルフレッドの低い声が耳朶じだを打つ。

 獣の唸り声のように轟く低い声。


「も、申し訳――」

「謝る必要はないだろう?」


 ウォルフレッドの声に、はっとして唇を引き結ぶ。


 サディウム家でもそうだった。謝れば、「口先だけの謝罪で済むと思っているのか!」と蹴り飛ばされ、謝らなければ「生意気な」と殴られ……。


 謝罪を封じられたら、もうトリンティアには口に出せる言葉がない。


 代わりとばかりに、こらえきれなくなった涙がこぼれ出す。


 泣いていては、「鬱陶しい」と責められる。止めなければと思うのに、後から後からあふれて止まらない。


 おとといの晩、思い切り泣いてしまったせいで、涙の栓が壊れてしまったのだろうか。うまく感情が制御できなくて、どうすればいいのかわからない。

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