24 このまま、放っておくわけにはいかぬだろう?


 握っていた手を放した途端、糸が切れたようにふらりとかしいだトリンティアに、ウォルフレッドは度肝を抜かれた。


 椅子から落ちそうになったせた身体を、あわてて抱きとめる。


「どうした!?」

 呼びかけるが、返事はない。


 顔を隠すための厚いヴェールを乱暴にめくり上げた瞬間、ウォルフレッドの視界に飛び込んできたのは、血の気を失って蒼白な、苦悶に歪んだ面輪だった。


 取り返せない、血塗られた過去の記憶が甦り、一瞬で全身が総毛だつ。


「おいっ!?」


 気を失っているだけ――。


 そうわかっているはずなのに、呼ぶ声が震え、ひび割れる。


 生気を失った蒼白な面輪。血に染まった白いドレス。もう二度と、ウォルフレッドの名を呼ぶことはない優しい声――。


 失った過去が、ウォルフレッドをし潰さんばかりに襲ってくる。


「大丈夫です。嬢ちゃんは気を失っただけです」


 ぐっ、とゲルヴィスの分厚い手のひらがウォルフレッドの肩を強く掴む。痛みすら感じるほどの強さに、ウォルフレッドはようやく我に返った。


「そう、か……。気を失っているだけか……」


 自分自身に言い聞かせるように呟く。こぼした声は、自分でも呆れてしまうほど頼りなかった。


「元々、度胸とは無縁の性格みたいですし、慣れない場所に急に引っ張り出されて、気力を使い果たしたんでしょう。少ししたらすぐに目覚めますよ」


「そうだな……」


 穏やかに言い聞かせるゲルヴィスの声に、自分を納得させるように頷く。


 くたりと力を失った痩せた身体をそっと抱き上げ。


「しかし、このまま放ってはおけぬ。……謁見の予定は、まだ入っているのだったな?」


「はい。あと三件ございます」


 セレウスが即答する。その声は、謁見の予定を変える気など欠片もないと言外に告げていた。


「だが、さっきの今で、こいつをひとりにはしておけまい」


 急に予定を変えるなどできないことは、ウォルフレッドとて承知している。

 だが、こんな状態のトリンティアを放っておくことは断じてできない。


 トリンティアの蒼白な顔を見るだけで、胸の奥がきりで突かれたように鋭く痛む。


 夕べ、傷つけないとトリンティアに誓ったばかりだというのに、一日も経たぬうちに、気を失うほどの重圧を与えてしまうとは。


 完全に、ウォルフレッドの読み間違いだ。単に黙って座っているだけならば、問題はないと思っていた。多少は緊張するだろうが、ただ、座っているだけなのだから、と。


 貴族達との謁見の際、震えていた小さな手を思い出す。


 歯の根が合わぬほど震え、すがるように力を込めてきた細い指先。子うさぎのように、いつも何かに怯えている少女。


 『冷酷皇帝』を恐れ、怯えているのだと思っていた。『冷酷皇帝』がウォルフレッドが自ら広めた噂だろうと知れば、少しは恐怖が減じるだろうと。だが。


 力を込めるだけで握りつぶせそうな痩せっぽちの少女が、何にこれほど怯えているのか、ウォルフレッドには想像がつかない。


 単に、身分が低い者の保身の知恵なのだろうか。身を縮め、小さくなっていれば、強者の嵐もいつかは去っていくだろうと。


 皇帝の甥として生まれ、誰かにかしずかれることを常として育ってきたウォルフレッドには、よくわからない。


 内乱の時には、身分が低い兵達と共に戦ったこともあるが……。確かに、彼等も、銀狼の血を継ぐウォルフレッドに怯えてはいたが、トリンティアの恐怖は、彼等より、もっと根深い気がする。


「陛下?」


 セレウスの声に、ウォルフレッドは思惑の海から引き上げられる。

 今、考えなければならないことは、気を失ったトリンティアをどうするかだ。


「仕方あるまい」


 ひとつ吐息し、ウォルフレッドはトリンティアを抱き上げたまま、隠し部屋へと歩を進める。


 意図に気づいたゲルヴィスが先回りしてさっと扉を開けた。


 隠し部屋の中は無人だった。

 ウォルフレッドは、騎士達に守られる必要性など感じない。自分の身は身分で守れるのだから、無駄な労働をさせるくらいなら、城下の治安を保つために巡回でもさせていたほうが、よほど良い。


 何より、この隠し部屋が作られた最たる理由は――。


 胸に湧きあがる不快感を踏み潰すように、大股に部屋の中央に置かれた立派な寝台に歩み寄る。


 使う気など決してないが、これだけ大きな物を内密に運び出すのも手間なので放っておいたのだが、ほこりをかぶっていた寝具を換えておいてよかったと、初めて思う。

 埃だらけの寝台に寝かせるのはさすがに可哀想だ。


 掛布をめくりあげ、トリンティアをそっと寝台に下ろす。二人が優に眠れる大きさの寝台は、小柄なトリンティアにはあまりに不釣り合いだ。


 動いた拍子にヴェールがかかったら息苦しいだろうと、厚手のヴェールを取ってやる。結われた髪からほつれたくすんだ茶色の髪が、敷布の上にはらりと落ちる。


 眉根を寄せたままのトリンティアは、まったく目覚める気配がない。かろうじて娘らしい曲線を描く頬に指先でふれてみる。


 血の気を失った肌はひやりと冷たく、嫌でもウォルフレッドの心をかき乱す。


「陛下」

 セレウスが急かすようにウォルフレッドを呼ばう。


「……すぐに戻る」


 ひとつ頷き、ウォルフレッドは足早に隠し部屋を後にした。

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