23 恐れながら、その『花の乙女』は本物でございますか?


 いったい、何がどう間違って、こんなことになっているのか。


 正体を見極めようと、ちらちらとこちらへ向けられる視線を、顔の前に垂れたヴェール越しに感じながら、トリンティアは細かな彫刻が背もたれに施された豪華な椅子の上で、震え出さないように、絹の手袋に包まれた両の拳を、膝の上で握りしめていた。


 刺繍ししゅうがされた厚手のヴェール越しにうっすらと見えるのは、謁見えっけんの間に居並ぶ十数人もの貴族達だ。


 そっと視線を動かせば、斜め前の玉座に尊大に座すウォルフレッドと、その両脇に立つゲルヴィスとセレウスの姿が見える。


 白くゆったりとした古めかしい型の絹のドレスを着せられ、ウォルフレッド達と共に、壇上の玉座にいるなんて……。


 誰か、これは夢だと言ってほしい。というか、叶うなら、いっそのこと気を失って、夢の世界へと逃げ込んでしまいたい。


 だが、無論そんなことが許されるはずもなく。


「何も言わずに、『花の乙女』として、ただ大人しく座っていろ。それだけでよい」


 と事前にウォルフレッドに命じられた通り、トリンティアは気を抜くと丸まって震え出しそうな身体をひたすら叱咤して、ぴんと背筋を伸ばして座り続けている。


 貴族達がウォルフレッドに謁見を求めた理由は、約半月後に開催されるという『天哮てんこうの儀』について、進言したいことがあるためらしい。


 トリンティアには政治のことはさっぱりわからないが、貴族達の言い分を聞くに、彼等は『天哮の儀』をり行ってほしくないらしい。


「陛下のご威光は銀狼国にあまねく知れ渡っております。玉体に負担をかけてまで執り行わずとも、陛下の御代みよかげりが落ちることなど決して……」


「ほう。それで、貴族どもに『天哮の儀』も満足に執り行えぬ新皇帝とあなどられよと?」


 進言を途中で叩き斬るように、ウォルフレッドが吹雪よりも冷ややかな声を上げる。


 ひやり、と謁見の間の温度が下がった気がして、トリンティアはさらに強く両手を握りしめて震えをこらえる。


 進言した貴族が、「め、滅相もございません!」と青い顔で首を横に振る。


「わたくしどもはただ、陛下の御身を案じているだけでございます! 『天哮の儀』を行われるとなれば、陛下のご負担はいかほどになろうかと……っ! ようやく我らが忠誠を誓えるようになった尊き陛下の身を案じるのは、臣下として当然のことでございましょう?」


「なるほど。主人思いの臣下を得て、わたしは幸運だな」


 ウォルフレッドがゆったりと頷く。端正な面輪に浮かんだ小さな笑みに、謁見の間の空気が、春の雪解けを迎えたかのように、ほっと緩む。


「でしたら――」

「だが」


 期待を込めた開かれた貴族の口を、針のように鋭いウォルフレッドの声が縫い留める。


「おぬしらの心配は無用となった。ようやく『花の乙女』を得たのでな」


「っ!」

 瞬間。トリンティアは視線の矢に貫かれて、息絶えるかと思った。


 貴族達が一斉にトリンティアを見つめる。


 驚愕、疑惑、怒り、憎悪……。ありとあらゆる負の感情がヴェール越しに叩きつけられ、こらえきれずに身体が震える。


 今すぐ顔を覆い、背を丸めてここから逃げ出したい。


 だが、心とは裏腹に身体が震えて、指一本たりとも動かせない。ただただ、合わなくなった歯の音がかたかたと鳴るだけだ。


 恐怖に鳴りやまぬ歯の音が聞こえたらどうしようと、泣きたくなる。ウォルフレッドにもセレウスにも、一言も話さずにただ静かに、できる限り堂々と座っていろと言われたのに。と。


「そのように、そろいも揃って恐ろしげな顔でにらむな。わたしの『花』がおびえているではないか」


 不意に、あたたかく大きな手に右手を包まれる。


 驚いた拍子に、呪縛が解けたかのように身体が動くようになる。

 掴まれた指の先を見上げると、いつの間にか玉座を離れ、トリンティアの椅子の横に立つウォルフレッドの姿が目に入った。


 大丈夫だといいたげな碧い瞳を見た途端、震えが止まる。トリンティアの手をすっぽりと包むあたたかな手は、思わずすがりつきたくなるほど、頼もしい。


 つ、と眼下の貴族達を見下ろす端正な横顔を、トリンティアは魅入られたように見つめ続ける。


「へ、陛下……っ! ひとつお聞かせくださいませ……! その『花の乙女』は、どちらで見出みいだされたのでございますか!?」


 信じられない――。

 そう言いたげな切羽詰まった声が、貴族達の間から上がる。


「ああ、これは」

 ウォルフレッドの唇が楽しげに吊り上がった。


「とある貴族が、わたしに献上したのだ」


「な……っ!?」


 雷霆らいていが落ちたかのような衝撃が、貴族達の間を走り抜ける。

 慌ただしくお互いの顔を見合わせる貴族達の顔に浮かぶのは猜疑心さいぎしんだ。


「お、恐れながら……っ」


 あえぐように声を発したのは、まだ二十代と思われる若い貴族だった。


「その『花の乙女』は、本物でございますか……!?」


「本物か、だと?」


 ひやり、とウォルフレッドは発した怒気に、空気が凍りつく。


 と、ウォルフレッドが握ったままのトリンティアの手を持ち上げた。

 ちゅ、と手袋ごしに指先にくちづけを落とされる。反射的に手を引き抜こうとしたが、しっかりと握りしめたウォルフレッドの指が許してくれない。


「わたしの目が節穴だと言いたいのか?」


 トリンティアの指先に顔を寄せたまま、ウォルフレッドがわらう。


 先ほどトリンティアに見せた表情とは打って変わって、狼が牙をくように獰猛どうもうに。


「望むなら、今ここで銀狼の力を振るってやろう。だが……。最近、いくさから離れ、血に飢えておるのでな? 誰かの喉笛を噛み切るまで、おさまらぬやもしれんぞ?」


「ひいぃっ!」

 と、若い貴族が身も世もない悲鳴を上げてへたりこむ。


 もし椅子に座っていなければ、トリンティアも一緒にへたりこんでいただろう。


 先ほどよりももっと強い震えに、手足の感覚がなくなりそうだ。夕べ聞いた『冷酷皇帝』はわざと広めている噂だという話が、幻ではないかと思うほどに、恐ろしい。


 指先を握るウォルフレッドの手の力強さだけが、かろうじてトリンティアを現実につなぎとめている。


「おぬしらは、わたしがつつがなく『天哮の儀』をり行えるか案じているようだが……」


 貴族達を睥睨へいげいし、ウォルフレッドが迷いのない声音で告げる。


「『天哮の儀』は予定通り行う。これは、決定事項だ」


 続いて「もう下がってよい」と告げたウォルフレッドの言葉に、金縛りから解き放たれたように貴族達が謁見の間を後にする。


 廊下に控える兵士が、分厚い扉を閉めた途端。


「ぶぁっはっは! いやーっ、見物でしたね! あの貴族どもの顔!」


 ゲルヴィスがこらえきれないとばかりに腹を抱えて大笑いする。感心した声を上げたのはセレウスだ。


「お見事でございます。貴族達の間に的確にくさびを打ち込まれましたね。今頃、誰が裏切って陛下に『花の乙女』を献上したのかと、互いに疑心暗鬼になっていることでございましょう」


「『花の乙女』さえ、わたしに渡さなければ、そのうち、わたしが銀狼の血がもたらす苦痛に耐えきれずに自滅するだろうと、期待しているようだからな。今頃、お互いに腹の内を探り合っていることだろう」


 ウォルフレッドが人の悪い笑みを浮かべる。


「これで、勝手に瓦解してくれたらよいのだがな。まあ、そう甘くはなかろう。せいぜいお互いを牽制けんせいしあって、足を引っ張り合ってくれればよい」


 だが、トリンティアは三人のやりとりなど、ろくに聞いていなかった。


 頭がくらくらする。


 サディウム伯爵とよく似た印象の貴族達。

 彼らから注がれた憎悪のまなざしが、身体に刻みつけられた恐怖の記憶を嫌でも呼び覚ます。


「鶏がら、よくやった。お前のおかげで――」


 ウォルフレッドがトリンティアの右手を放す。大きな手が頭を撫でようと辿り着く前に。


「おいっ!?」


 トリンティアは、ウォルフレッドの手がほどけた瞬間、意識を失っていた。

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