22 『冷酷皇帝』の真意


「……え?」


 理解の範疇はんちゅうを越えて、思考がぷすん、と焼き切れる。


 冷酷皇帝。凄惨な噂とともに恐ろしげに囁かれる、陰での呼び名。

 それを、自ら広げたとは。


「どうして、ですか? どうして、そんなことを……?」

 考えるより早く、するりと疑問がこぼれ出る。


「今の銀狼国には、『強い王』が必要だからだ」


 ウォルフレッドが強い声音で即答する。


「強い、王様……ですか?」


 トリンティアには、よくわからない。


 銀狼国の皇帝には、人知を超える銀狼の力が宿っているのだという。それがどんな力なのか、トリンティアは具体的には知らないが、そんな力がある上に、権力も財力もあるなんて、もう十分に強いのではないだろうか?


 わけがわからないと言いたげなトリンティアの表情を読み取ったウォルフレッドが苦笑する。


「前皇帝は『弱い王』だった。色欲におぼれ、まつりごとかえりみず……。結果、貴族達は好き勝手に振る舞い、国は乱れた」


 黙したまま見上げるトリンティアに、ウォルフレッドが問う。


「わたしが前皇帝の皇子ではなく、甥だということは知っているな? 皇位争いを制して帝位についたことも」


 こくんと頷くとウォルフレッドが続ける。


「一年に及ぶ皇位争いにより、もともと乱れていた銀狼国の統治は、決定的に乱れた。今や、各領の貴族達は己の権勢を伸ばし私腹を肥やすことに夢中で、皇帝に忠誠を誓っている者など、皆無に等しい。……己の足元が、ゆっくりと腐り始めていることにも気づかずに」


 蝋燭ろうそくの小さな炎だけがかすかに揺らめく薄闇の中に、ウォルフレッドの低い声だけが揺蕩たゆたう。


「今、銀狼国に必要なのは、領主や貴族どもの反発を有無を言わせず押さえつける力を持った『強い王』だ。国をまとめられず、貴族達の横暴を許していれば、早晩、再び内乱が起きるか、他国に攻め入られよう」


 ウォルフレッドの言葉に、身体に震えが走る。


 皇位争いの時、トリンティアは直接、戦場に立ったわけではない。


 けれど、戦に駆り出された男達が帰ってこなかったり、また帰ってきたとしても怪我を負って働けなくなり、税が払えず一家が離散したという話は、嫌というほど伝え聞いた。


 幸いサディウム領は戦禍に巻き込まれずに済んだが、攻め入られて畑に火を放たれたり、村が焼かれた領は、冬を越す食料がなく、山のような餓死者が出たという噂も耳にした。


「ふたたび戦禍が起これば、真っ先に苦しむのは民達であろう」


 ウォルフレッドの端正な面輪がいたむように歪む。


「何十人、何百人をもほふってきたわたしが言えることではないと、承知している。だが……。これ以上、無辜むこの民に、無用な血を流させたくはないのだ」


 真摯しんしな願いがこめられた言葉。


「わたしがすぐに皇位から追い落とされることになれば、再び内戦がおこるのは必至だ。それを避けるためにも、わたしは『強い王』として、貴族達を従わせなければならぬ。――たとえ、恐怖で縛りつけることになろうとも」


「だから、『冷酷皇帝』の噂を……?」

 トリンティアの問いに、ウォルフレッドが迷いなく頷く。


「そうだ。手っ取り早く人を従わせるのに、恐怖は有効だからな」


「……よいのですか?」


 するりとこぼれた疑問に、ウォルフレッドが不思議そうな顔をする。


「何がだ?」


 問い返されて、トリンティアは言い淀む。

 トリンティアには、政治のことなど、まったくわからない。けれど。


 罵られ、さげすまれる心の痛みはわかるから。


「たとえ自分から望んだとしても……。『冷酷皇帝』と呼ばれるのは、お辛くないですか……?」


 心配になって問うた途端、ウォルフレッドが虚を突かれたように目をしたばたいた。


 かと思うと、思わず見惚みほれてしまうような柔らかな笑顔で破顔する。


「そんなことを聞いたのは、お前が初めてだ」


「も、申し訳――、ひゃっ」


 とんちんかんなことを言ってしまったのだと謝ろうとした途端、身を屈めたウォルフレッドに額にくちづけされた。麝香じゃこうの薫りが強く薫る。


「あ、あの……っ!?」


 狼狽うろたえて見上げると、額から唇を離したウォルフレッドが視線を合わせて覗きこんだ。碧い瞳に見つめられるだけで、顔がますます熱を持つ。


「『花の乙女』であるお前に誓おう」


 そ、と大きな手のひらがトリンティアの頬を包む。反射的に、ぴくりと身体が震えた。


「『冷酷皇帝』と呼ばれるわたしだが、お前を傷つけることは決してせぬ。それゆえ……」


 眉を下げたウォルフレッドが、困ったように微笑む。


「そう、怯えてくれるな」


「も、申し訳ございません……っ」

 謝罪が口を突いて出る。


 『冷酷皇帝』が、ウォルフレッドが自ら広めた噂だと知って、ほんの少しだけ安堵したのは確かだ。


 だが……。だからといって、ウォルフレッドに対する恐怖がすべて消え去ったわけではない。


 一見、優しげに見えても、心の底までその通りだとは限らない。状況が変われば、人の心などすぐに変わる。トリンティアはもう、嫌というほど知っている。


 けれど同時に、命じれば済むものを、一介の侍女に真摯しんしに頼むウォルフレッドを信じたくもあって。


「で、できる限りの努力をいたします……」


 きっと、この上なく情けない顔をしているに違いない。


 できませんと言って、ウォルフレッドの機嫌をそこねたくはないが、できもしないことをできるとは、間違っても口にしたくない。「たばかったな」と責められる危険を冒すのは絶対に嫌だ。


 言いがかりをつけようと思えばいくらでもつけられるトリンティアの返事に、だがウォルフレッドは怒らなかった。


 代わりに、優しく髪をひとでされる。


「そうか。ならば、わたしも努めることにしよう」


 聞き返すより早く、体勢を変えたウォルフレッドが肩まで掛布を引き上げ、トリンティアの背中側に横になる。

 後ろからぎゅっと抱き寄せられ、思わず身体が緊張に強張った。


「そう、怖がるな。手は出さんと言っただろう?」


「そ、それは承知しておりますが、でも……」

 首筋にかかるあたたかな吐息に、ますます身体に力が入る。


「……足は、どうだ?」


 眠くなってきたのか、ウォルフレッドがとろんとした声で問うてくる。


「だ、大丈夫です。お薬を塗り直していただいたおかげで、もうほとんど痛くありません。本当にありがとうございます」


 礼を述べると、ほっ、と吐き出された息が肌をくすぐった。


「そう、か。よかった……」


 呟いた言葉が不明瞭にほどけ、寝息へと変わってゆく。


 本当に、寝つきのいい方だ。それに、抱き寄せる時にも怪我をした足にさわらぬよう、気を遣ってくれた。


 先ほど話していた通り、『冷酷皇帝』が作られた虚像だというのは、真実なのかもしれない。


 ……かといって、ウォルフレッドに対する緊張や怯えがすぐに解けるわけではないのだが。


(どうしたら、いいんだろう……)


 ウォルフレッドの頼みに応えられたらと思う。


 罰を与えられるのが恐ろしいからという理由だけではなくて、エリティーゼ以外で初めてトリンティアに優しくしてくれた人に、恩返しができたら、と。


 けれど、方法がまったくわからない。


 思い悩みながら、トリンティアはいつしか眠りに落ちていた。

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