20 お前は、わたしが怖いのか?


「お願いですから、お放しくださいませ……っ」


 鏡を見なくても、顔が真っ赤になっているのがわかる。


 泣きたい気持ちで懇願すると、はあっ、と深く嘆息された。『冷酷皇帝』を不快にさせてしまったかと、びくりと身体が震える。


「この程度で動揺していては、『花の乙女』の務めは果たせんぞ?」


「で、ですが……」

 いったいどうすればいいのかわからない。


 羞恥しゅうちと混乱で、じわりと涙がにじんでくる。ウォルフレッドが困り果てたように形良い眉を下げた。


「そう怯えるな。ゲルヴィス、セレウス。何か方策はないか? さすがに、ではさわりが出る」


「人を動かすには、褒美ほうびと恐怖が手っ取り早い手段ですが……」


 淡々と進言したセレウスの言葉を、ウォルフレッドは鼻で笑って一蹴する。


「褒美に林檎の芯を望むような奴だぞ? それに、これ以上怯えさせてどうする?」


「つまり、これ以上、嬢ちゃんが怖がらなけりゃあ、いいんすよね?」


 大きな手で頭をがしがしといたゲルヴィスが、不意にトリンティアを覗きこんで優しく笑う。


「嬢ちゃん、そんなに陛下が怖いのか?」


 いかつい顔なのに、包容力を感じさせる頼もしい笑みに、トリンティアは引きこまれるように、こくんと頷く。


「だ、だって、皇帝陛下だなんて、雲の上の御方で、あまりにも恐れ多くて……っ。それに……」


 言いかけて、はっと我に返り、口をつぐむ。が、ウォルフレッドは聞き逃してくれなかった。


「それに、何だ?」

「な、何でもございませんっ」


 ぷるぷるとかぶりを振ると、す、と碧い瞳がすがめられた。刺すような威圧感に心臓が縮み、身体ががたがた震えだす。


「あー、陛下? さらに怯えさせてどうするんすか」


 ゲルヴィスが呆れたように口を挟む。次いで、トリンティアに向けられたのは、先ほどと同じ、慈愛に満ちた笑みだ。


「嬢ちゃん。陛下が怖い理由があるのなら、正直に教えてくれねぇか? 大丈夫だ。何を言っても嬢ちゃんに罰を与えたりしないと、俺が保証する」


 きっぱりと告げられた頼もしい言葉に、心が揺れる。おずおずと視線を上げると、目が合ったゲルヴィスが力強く頷いた。


 ウォルフレッドとセレウスは恐ろしいが、ゲルヴィスは見た目とは裏腹に、あまり恐ろしくはない。トリンティアの気持ちをんでくれるし、いつも皿に料理を盛ってくれるし、三人の中では一番心許せる存在だ。


「そ、その……」

 意を決して、トリンティアは震える唇を開く。


「わ、私は粗忽者そこつものですから……。『冷酷皇帝』と呼ばれてらっしゃる陛下に粗相そそうをしてしまったら、どんな罰を受けるかと思うと、怖くて……」


 かつてサディウム家で受けた折檻せっかんの記憶がよみがえり、止めようとしても震えが止まらなくなる。


「あー……」

 と、ゲルヴィスが困ったように頭に手をやった。


「嬢ちゃんには、『冷酷皇帝』の印象が、ばっちり植えつけられてるみたいっすねぇ。まあ、ふつーは嬢ちゃんの反応が正常なんでしょうけれど」


「なるほど……」


 何やら考え深げに呟いたウォルフレッドが、抱き上げたままのトリンティアに視線を向ける。


 それだけで反射的に身体が強張る。


「お前は、わたしが怖いのか?」


 あまりに直截ちょくせつな物言いに、言葉に詰まる。


 が、今この機会を逃したら、こんな好機は二度とないだろう。

 トリンティアは恐怖と緊張でからからになった喉から声を絞り出す。


「こ、怖いです……っ」


 途端、ウォルフレッドの眉がわずかに寄る。トリンティアは慌てて言い足した。


「こ、怖いのは確かなのですが、陛下だけが怖いというわけではなくて、その……っ。身分のある男の方は、みんな苦手で怖くて……っ」


 ただでさえ、せっぽちなトリンティアでは、絶対に力ではかなわないのに。


 些細なことで高圧的に責められ、折檻されたら、トリンティアにはもう、泣いて許しを請うことしかできることがない。しかも、泣いたら泣いたで鬱陶うっとうしい、とさらに蹴り飛ばされるのだ。


「も、申し訳……っ」

 震えながら謝罪しようとすると、


「よい、謝るな」


 と遮ったウォルフレッドが、トリンティアをそっと床に下ろす。


 トリンティアはぎゅっと身を固くして目をつむった。

 蹴り倒されるのか、殴られるのか……。どちらにしろ、すぐに襲い来るだろう痛みをこらえようと。だが。


 不意に、ぽふぽふと頭を撫でられる。少しぎこちない、けれど優しい手のひら。


「え……?」


 信じられなくて、目を開けきょとんと見上げると、逆に不思議そうに見返された。


「どうした?」

「い、いえ……」


 殴られるかと思って身構えていましたなんて、口に出せない。出せば、よくないことを招いてしまいそうで。


「な、何でもございません……」


 どうか、考えていることを読まれませんようにと願いながら、トリンティアはぷるぷるとかぶりを振った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る