18 これも『乙女の涙』だと思ってな


「え……?」


 言われて初めて、涙が頬を伝っているのに気づく。


「す、すみませんっ。これ、は……」


 役に立っていると、面と向かって言ってもらえたことなど、初めてで。


「嬉しく、て……」


 泣き止まねばと袖口でぬぐっても、涙は後から後からあふれてくる。


 みっともない姿を見られたくなくて顔を背けようとすると、包帯を巻き終えたウォルフレッドに、顔を覆っていた手を掴まれた。


 驚く間もなく、腰を浮かせたウォルフレッドの面輪が眼前に迫り。


 ちゅ、とれた頬にくちづけられ、思考が止まる。


「なっ、なななな何を……っ!?」


 押し返したいのに、ウォルフレッドに両手を掴まれていて叶わない。


「これも『乙女の涙』だと思ってな」

「な、何をおっしゃって……っ!?」


 訳のわからぬことを呟いたウォルフレッドの唇が、濡れた頬を辿ってゆく。ぎゅっと目をつむって顔を背けても逃げられない。


 ちゅ、ちゅ、と涙をすい取られ、恥ずかしさで思考が沸騰する。


 何とか逃げたくて身をよじった拍子に、体勢を崩した。こらえようとしたが両手を掴まれていて不可能だ。


「ひゃっ」


 長椅子に横倒しになったトリンティアの上に、ウォルフレッドが覆いかぶさってくる。膝の上に置いていた布袋がとさりと落ちた。


 ぎゅっと目をつむったままのトリンティアの感覚が、あたたかな重さと甘やかな麝香じゃこうの薫りを捉える。押し寄せる香気に息が詰まりそうだ。


「へ、陛下……っ!?」

「大人しくしていろ」


 あらがうトリンティアに、ウォルフレッドが短く命じる。

 だが、いくら『冷酷皇帝』の命令でも、じっとしているなんて無理だ。と。


 ぺろり、と湿ったものが頬をめ上げる。


「ひゃあぁっ!?」


 叫ぶと同時に、ばたつかせた足が、がん、と長椅子のへりにぶつかった。


「痛っ」


 トリンティアの悲鳴に、ウォルフレッドが我に返ったように身を離す。


「……痛みは?」


 床に降りたウォルフレッドがふたたびひざまいて、ぶつけた左足を手に取る。トリンティアはあわてて身を起こすと暴れたせいで乱れたスカートを押さえた。


 左足がじんじんと痛い。が、それよりも。


「あ、足よりも、心臓のほうが壊れそうです……っ」


 ばくばくと身体から飛び出しそうなほど、心臓が暴れ狂っている。


 いや、もしかしたら、すでに壊れているのかもしれない。激しい鼓動は、まったく収まる気配がない。


 トリンティアの返事に、目をまたたいたウォルフレッドがふは、と笑う。


「なら、大丈夫そうだな」


 大丈夫ではありません! と反論したいのを、かろうじてこらえる。


 ウォルフレッドは、いったい何を見て大丈夫だと判断したのか。痛いくらいに、心臓がばくばくなっているのに。


「『乙女の涙』というのを聞いたことがあるか?」


 ひざまずいたままのウォルフレッドに問われ、ふるふるとかぶりを振る。


「……だろうな」


 吐息したウォルフレッドは、答えを予想していたらしい。


「『花の乙女』だけが作れる秘薬だ。皇族の苦痛を和らげる効能がある。が、製法は秘匿されていて、わたしも知らぬ」


「『乙女の涙』、ですか……」


「ああ。試してみる価値はあるかと思ってな。……夕べは試しそこねたからな」


「っ!」


 告げられた瞬間、夕べの激しいくちづけを思い出し、ぼんっと思考が沸騰する。


 同時に、狼のあぎとさらされた恐怖を思い出し、ふるりと身体が震えた。


「ん? 痛みがひどいか?」


「い、いえ! 大丈夫です!」

 あわててかぶりを振る。


 不思議な方だ。狼のように冷酷で獰猛どうもうな表情を見せるかと思えば、まるで壊れ物を扱うように、丁寧に手当てをしてくれる。


 と、トリンティアは自分がまだ礼を言えていないことに気がついた。


「あ、あの! 手当てをしていただき、本当にありがとうございました!」


 深々と頭を下げる。返ってきたのは、ぶっきらぼうな声だった。


「礼などいらん。お前に怪我をされていては、困るのはわたしだからな」


 ウォルフレッドが立ち上がる衣擦きぬずれの音がした。床に落ちていた布袋を渡されたかと思うと、ひょい、とふたたび横抱きにされる。


「へ、陛下!?」


「執務室へ戻る。まだ仕事が残っているからな」


 扉を開け、廊下を歩みながら、ウォルフレッドが答える、まだ仕事があるのに、わざわざ手当てをしてくれたことには感謝しかない。だが。


「お、下ろしてくださいませ! 自分で歩けますっ!」


「無理をして怪我が長引いたらどうする? 大人しく抱かれていろ」


「だ……っ!? ですが……っ」」


 狼狽うろたえた声を上げるトリンティアを見下ろし、ウォルフレッドが牙をく狼のように笑う。


「あまりうるさく言っていると、くちづけてふさぐぞ?」


「っ!?」

 両手で口元をふさぎ、ぷるぷるとかぶりを振る。


「なんだ。わたしは構わなかったんだがな」


 どこまで本気で言っているのか。


 くつりと喉を鳴らすウォルフレッドの腕の中で、トリンティアはひたすら口を押さえ、身を強張らせていた。

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