17 わたしの大切な『花』に、何があったのかと聞いておる


 振り返るより先に、支えてくれた手の主を知る。


「おまえは、よくわたしにぶつかるな」

 呆れたように呟いたウォルフレッドが、つ、と端正な面輪を室内へ向けた。


「で。これは、どういうことだ?」


 真冬の吹雪よりも冷ややかな声が、空気を凍りつかせる。


「へ、陛下……っ」


 水揚みずあげされた魚のように口を開閉させた二人が、床に平伏する。かすれた声は震え、ほとんど音になっていない。


 ウォルフレッドが凛々しい眉をひそめた。


「わたしの大切な『花』に何があったのかと聞いておる。……答えられぬ口ならば、必要ないな?」


 ひいぃぃっ、と二人の口から、こらえきれぬ悲鳴がれる。


「も、申し訳ございません……っ」

「陛下の大切な方とはつゆ知らず……っ」


「つまり、謝罪せねばならぬ悪事を働いたと認めるわけだな?」


 ウォルフレッドの声がさらに低く、冷たくなる。


 放たれる威圧感に、それが向けられているわけではないトリンティアでさえ、恐怖に喉が干上がって、息ができなくなる。矛先ほこさきを向けられた二人は、震えるばかりで声すら出ない様子だ。


 謝罪を認めれば悪事を糾弾され、否定すれば「では、なぜ謝罪した?」と責められる。万事休すだ。


「ん? 答えられぬなら、やはり口はいらんな。舌を引き抜くか、首ごと斬るか……」


 むち打たれたように震えた二人から、もはや泣き声なのか悲鳴なのか判然としないすすり泣きがこぼれ出る。


 思わずトリンティアはウォルフレッドを振り返り、引き締まった腕を掴んでいた。


「ど、どうかそこまででお許しくださいませ……っ! 行き違いがあっただけなのです! 二人は、私が死んだものと思ってリボンを……!」


 トリンティアを見下ろしたウォルフレッドが首をかしげる。


「お前は、この二人に罰を与えずともよいのか?」


「もちろんです!」

 間髪入れずに頷く。


「罰なんて、まったく望んでおりません! 私はただ、リボンを返してもらえたらそれだけで……っ」


「だ、そうだ」


 平坦なウォルフレッドの声を聞いた途端、二人が先を争うようにリボンを取り、うやうやしく差し出す。


 受け取ろうと一歩踏み出した瞬間、左の足首がずきりと痛んだ。さっき突き飛ばされた時に、ひねったらしい。


 が、ウォルフレッドの気が変わらぬうちにと、痛みを無視してリボンを受け取る。


「取りに来たかった物はそれだけか?」


「あ、いえ。もう少しだけ……」


 トリンティアは自分の寝台の枕元に置いていた布袋を手に取る。私物はたったこれだけだ。


「では行くぞ」

 戸口へ戻ってきたトリンティアの手をウォルフレッドが握る。


「あの……!?」


 トリンティアの声を無視して、ウォルフレッドが大股に歩きだす。必死についていこうとしたが、数歩も行かぬうちに、痛みに足がもつれた。


「おい!?」


 つんのめったトリンティアを、振り返ったウォルフレッドが素早く抱きとめる。


「も、申し訳ございません……っ」

 立とうとするが、痛みで足に力が入らない。


 と、不意にふわりとウォルフレッドに横抱きに抱き上げられた。


「っ!? 下ろしてくださいませ!」


 反射的に足をばたつかせた拍子に、痛みが走り、うめき声が洩れる。

 足に視線を向けたウォルフレッドが、凛々しい面輪をしかめた。


「足をくじいたのか?」


「す、少しひねっただけです! 大丈夫ですから、下ろしてください!」


「立てなかったくせに何を言う? もっとひどく痛めたいのか?」


 トリンティアは身をよじるが、ウォルフレッドは危なげもなくすたすたと歩き続ける。


 たまたま向こうから来た従僕が、ウォルフレッドとトリンティアを目にした途端、信じられぬものを見たように凍りつく。かと思うと、弾かれたように片膝をついてこうべを垂れた。


 ウォルフレッドは一瞥いちべつすらせず大股に前を通り過ぎるが、トリンティアはとてもではないが、冷静ではいられない。


 どうにかして姿を消せないかと、無駄と知りつつ、ぎゅっと身を縮める。


「本当に下ろしてくださいませ……っ! このままでは、陛下によからぬ噂が立ちかねません!」


 こんなところを見られたら、どんな噂が立つかわかったものではない。必死で訴えると、ウォルフレッドがはんっ、と鼻を鳴らした。


「今さら、『冷酷皇帝』に悪名のひとつや二つ加わったところで、何も変わらぬ」


 ウォルフレッドは自分が陰でなんと呼ばれているか、知っているらしい。

 端正な面輪に、すごみのある冷笑が浮かぶ。


「いったいどんな噂が流れるか、楽しみだ」


 ウォルフレッドは噂を流した者をどうする気なのだろうか。気になるが、恐ろしすぎて聞けない。


 腕の中で震えている間に、皇帝の私室に着く。器用に扉を開けたウォルフレッドが、トリンティアを横抱きにしたまま、奥へと進む。


 トリンティアが下ろされたのは、部屋の奥にある布張りの長椅子だった。


「待っていろ」


 一方的に言い置いたウォルフレッドが、立派な戸棚から簡素な木箱を持ってくる。長椅子の端に置いてぱかりと開けた木箱の中には、いくつもの小さなつぼや包帯が入っていた。どうやら薬箱らしい。


 と、不意にウォルフレッドが目の前の床に膝をついて屈み、トリンティアは度肝を抜かれた。


「足を出せ」


 言葉と同時に、ウォルフレッドが左足を取り、丁寧に靴を脱がせる。


 乱暴な口調とは裏腹に、手つきは驚くほど優しい。が、感心している場合ではない。


「だ、大丈夫ですから! こんなの、放っておけばすぐに治りますっ!」


 足を引っ込めようとするが、ウォルフレッドの大きな手が、しっかりと左足を掴んでいて叶わない。


「放っておけるわけがなかろう。『花の乙女』であるお前が怪我をしたら、困るのはわたしだ」


「で、ですが、陛下に診ていただくなんて……、っ!」

 不意に足首にふれられ、痛みに呻く。


「痛いくせに無理をするな。……ああ、お前が言った通り、ひねっただけのようだな」


 木箱に納められていた壺のひとつから、どろりとした軟膏なんこうすくったウォルフレッドが、膝の上に載せて固定したトリンティアの足首に、丁寧に塗り広げる。


 ミントが入っているのだろうか。青臭い草の匂いに混じって、かすかに清涼な香りが届く。


 ここまでしてもらったら、断るほうが悪い気がする。トリンティアは覚悟を決めてウォルフレッドに任せることにした。


 が、心臓に悪いことこの上ない。足の裏に感じるのは、なめらかな絹の肌触りだ。大丈夫だろうか。足の裏が汚れていて、絹のズボンを汚してしまったらどうしよう。


 おののくトリンティアをよそに、驚くほど手慣れた様子で、ウォルフレッドが足首に包帯を巻いていく。


「……なぜ、かばった?」


「え?」


 不意に問われて、トリンティアはきょとんとまたたいた。

 足首に視線を落としたまま、ウォルフレッドが淡々と問う。


「ひねったのは、突き飛ばされた時だろう? 怪我まで負わされたというのに、なぜ、あの者達を庇った? 庇う必要もない厚顔無恥なやからだというのに」


 心底理解できぬと言いたげなウォルフレッドの声。


「なぜかと問われましても……」

 トリンティアにもわからない。


「ただ、あの時は夢中で……。それに、勝手にリボンを使われていただけで罰せられるなんて、気の毒ですし……」


 あのまま放っておけば、ウォルフレッドが苛烈な罰を与えそうで。そう思った瞬間、勝手に身体が動いていた。


「だが、大切なリボンなのだろう?」


「それはその通りです! ですが、二人に罰を受けてほしいとまでは思いません」


 きっぱりと告げると、ウォルフレッドが不愉快そうに眉を寄せた。


「お人好しすぎるな、お前は。見たところ、あの二人の横暴は、今回だけに限らぬようだったが」


「それ、は……」


 見てきたように断言され、言い淀む。


「私がいつもいたらないせいなので……」

 サディウム家でも、「役立たず」「愚図ぐず」とどれほど罵声を浴びてきただろう。


「お前の言い分はわかった。だが」


 ウォルフレッドの強い声に、導かれるようにうつむいていた面輪を上げる。晴れた空と同じ碧い瞳が、真っ直ぐにトリンティアを見つめていた。


「お前は今や、わたしの『花の乙女』だ。あのような小物に侮られることは、わたしが許さん」


「す、すみませ――」

「それと」


 謝ろうとした声を、ウォルフレッドが遮る。


「少なくとも、わたしはお前を役立たずとは思っておらんぞ」


「っ!」

 息が、詰まる。


 思わずまじまじとウォルフレッドの端正な面輪を見つめ返すと、いぶかしげに首をかしげられた。


「なぜ、泣く?」

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