13 苦痛に苛まれる日々に戻るなど、考えられない


 鼻の下のくすぐったさに、ウォルフレッドは目を覚ました。


 目の前にあったのは、すやすやと眠るトリンティアの顔だ。夕べは背中を向けていたが、いつの間にか寝返りを打っていたのだろう。寝乱れた前髪が、ウォルフレッドをくすぐったらしい。


 いつも恐怖に身を強張らせて顔を伏せているので、トリンティアの顔をまじまじと見るのは、初めてだ。


 あどけない寝顔と、やせっぽちな身体つきとが相まって、今年で成人の十六歳を迎えているとは思えないほど、幼く見える。


 ウォルフレッドは眠る少女の痩せた身体をそっと抱き寄せた。


 固い。薄物の夜着を見た時も思ったが、骨と皮と申し訳程度の肉しかないのではなかろうか。少女というより、少年だ。女性らしいまろやかさが欠片もない。


 セレウスの考えはわかるが、さすがに鶏がらに手を出す気はない。


 前皇帝は年端としはもゆかぬ少女の花を摘むのを好んでいたらしいが、女色に溺れていた前皇帝でさえ、さすがにこれには手を出す気にならなかっただろう。


 犬でもあるまいし、骨をしゃぶる趣味はない。


 初めて怯えていないトリンティアを目にして、ウォルフレッドは実は少女が意外と愛らしい顔立ちをしていることに初めて気がついた。


 派手さはない。だが、品よく整った愛らしい顔立ちは、野辺に咲く可憐な花を連想させる。


 もっと肉がつけば、つぼみが花開くように愛らしい少女になるだろう。だが、現状では、身体の貧相さが先に目について、どうにも印象が悪い。


 これでは、おそらく異性に手を出された経験などないに違いない。


 ウォルフレッドは夕べを苦く思い出す。


 昼間、隠し部屋でトリンティアの怪我をした指を口に含んだ時、単にトリンティアにふれる以上に痛みが和らいだ気がした。


 ならば、確かめてみようと……。くちづけ舌を割り入れた途端、ウォルフレッドを襲ったのは、苦痛をくつがえすような悦楽だった。


 経験したことのない、背筋を直接で上げられるような甘いしびれに、我を忘れそうになったのは否定できない。


 確かに、やりすぎた自覚はあるが……。


 まさか、大泣きされるとは予想の埒外らちがいすぎた。


 幼子のように泣きじゃくる姿にどうにも罪悪感が刺激されて――。


 「悪かった」などと、誰かに謝罪したのは何年ぶりだろう。ゲルヴィスとセレウスが知ったら、目をむいて驚くに違いない。いや、ゲルヴィスはその後、腹を抱えて爆笑するだろうが。


 『冷酷皇帝』として、敵に憎悪され恨まれることなど、数限りなくしてきたし、それに心を痛めることもしなかった。その程度で惑い、足を鈍らせていては、皇位争いを制することなど、できるはずもない。

 けれど。


 夕べのトリンティアの涙は、ウォルフレッドの心のよろいで覆われていない部分に、妙に突き刺さった。


 十歳で母と死別したこともあり、ウォルフレッドは女性の扱いに慣れているとは言いがたい。そばにいたのは侍女達くらいだ。


 ただひとりの例外といえば――。


 ウォルフレッドはかぶりを振って、胸に湧き上がりかけた感情を追い払う。

 いま考えるべきは過去ではなく。


「せめて、もう少し慣れてほしいものだがな……」


 低い声で溜息まじりに呟く。


 苦痛にさいなまれずに公務に打ち込み、眠れることが、どれほどの僥倖ぎょうこうか、トリンティアは知らぬだろう。


 銀狼国の皇族の身に流れる、銀狼の血。人の身に納まりきらぬ力を振るう代償は、絶え間ない苦痛だ。そして、発現した銀狼の力が強ければ強いほど、代償として苦痛もまた、大きくなる。


 死に物狂いでようやく手に入れた皇位を、『花の乙女』が手に入らぬばかりに手放す羽目に陥るなど、そんな馬鹿な事態を認められるものかと、苦痛をひた隠しにして公務に励んできたが……。


 ウォルフレッドは眠るトリンティアの身体に回した腕に力をこめる。


 それだけで、身体の奥底まで侵食し、堆積たいせきしていた苦痛が、春の陽射しをあびた雪のようにほどけ、少しずつ消えてゆくのを感じる。


 トリンティアは健やかな寝息を立てたまま、起きる気配もない。


 『花の乙女』を見つけた今、以前のような苦痛まみれの日々に戻ることなど、考えられない。


 一度、安楽を知ってしまった心身は、ふたたびの責め苦に耐えられるかどうか……。数か月もの間、苦痛を隠し通してきたウォルフレッドでさえ、自信が持てない。


「……代々の皇帝達が、『花の乙女』におぼれた理由もわからなくはないな」


 そう考えれば、トリンティアが抱く気も起きない鶏がらなのは、ウォルフレッドにとって、幸いというべきなのかもしれない。


 いっときの劣情で『花の乙女』に溺れ、堕落するような事態は、死んでも御免だ。


 が、せめてもう少し、『花の乙女』の務めに慣れてもらわねば……。ふれるたび、びくびくと怯え、震えられるのはさすがに困る。


 『冷酷皇帝』と呼ばれるウォルフレッドとて、感情まですべて凍りついているわけではないのだ。


 ウォルフレッドは眠るトリンティアの額にそっとくちづける。眠っている今は、震えることも抵抗されることもなく、大人しいものだ。起きている時も、この調子なら助かるのだが。


 命じるのは簡単だが、それではトリンティアの恐怖を根深くするだけだろう。


 さて、どうしたものか……。と、ウォルフレッドは眠る少女を見つめて思案した。

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