12 狼に、喉笛を噛み千切られたかと思った


 喉の奥でほとばしった悲鳴は、ウォルフレッドの舌に阻まれて、声にならない。


 ――狼に、喉笛をみ千切られたかと思った。


 見開いた視界に、碧い瞳が映る。射抜くような視線に、身体の奥底まで貫かれるような恐怖を感じ、ぎゅっと固く目を閉じる。


 かぶりを振って逃げたいのに、あごを掴んだウォルフレッドの手が許してくれない。両手で力いっぱい押し返しているのに、引き締まった身体はびくとも動かぬ彫像のようだ。


 熱く湿った舌が、恐怖のあまり奥に引っ込んだ舌を捕らえてなぶる。


 息を吸おうとした瞬間、さらに深くくちづけられ、トリンティアは恐慌に陥った。


 固く閉じたまなうらで白い火花が散り、思考が止まる。

 窒息する、と本能的な恐怖を感じたところで、ようやくウォルフレッドの唇が離れた。


 反射的に新鮮な空気を求めてあえぐ。


 強い酒の樽に頭から突っ込まれたようだ。間近で薫る麝香じゃこうの甘く濃厚な香りにくらくらする。


 心臓が痛いほど暴れているので、かろうじて自分が生きているのだとわかる。が、本当は知らぬうちに魂が身体から抜け出しているのではなかろうか。


 乱れてまとまらない思考のまま、固くつむっていたまぶたをこわごわ開ける。


「っ!」


 開けた瞬間、トリンティアを射抜いたのは、紺碧の空より深い碧い瞳だった。

 火傷やけどしそうな熱情を宿した瞳が、真っ直ぐにトリンティアを貫く。


 ――食べられる。


 本能が冷酷に告げる。

 美しい狼に、一息に喰い殺される、と。


 恐怖が思考を真っ白に染め上げる。頭のどこかで、ふつり、と糸が切れる音がした。同時に。


 喉の奥から、自分のものとは思えないほどの大きな泣き声があふれ出す。


 ぼやけてにじむ視界の向こうで、ウォルフレッドが碧い瞳を見開くのが見えた。


 だが、止めようにもたがが外れてしまったかのように、涙も声も止められない。


 恐怖、羞恥しゅうち、不安、混乱……。トリンティアのせた身体の中に納まりきらなくなった感情が、洪水のようにあふれ出す。


「陛下っ!? 何があったんすか!?」


 泣き声が部屋の外まで届いたのだろう。扉の向こうからゲルヴィスの戸惑った声が聞こえてくる。


「かまうな。ほうっておけ」


 幼い子どものように激しく泣くトリンティアを見下ろしたまま、ウォルフレッドが扉を振り向きもせず、すげなく返す。


 端正な面輪には、泣き続けるトリンティアをどう扱えばいいのかわからないと言いたげな戸惑いが浮かんでいた。


 トリンティア自身ですら、自分がどうなってしまったのかわからない。


 こんな風に大声で泣くなんて、幼い子どもの頃以来だ。うじうじと泣き続けていると、いつも鬱陶うっとうしそうに蹴られたり、引っぱたかれたりしたから。


 だから、そんな目に遭わないように、端っこで息をひそめて、嵐が通り過ぎるまでやり過ごしてきたはずなのに。


 きっと、どこかが壊れてしまったのだ。


 人の姿をした狼が、感情をいましめていた鎖まで、噛み千切ってしまったに違いない。


 心の次は、身体まで喰われてしまうのだろうか。


 恐ろしい。けれど、心の中に鬱屈うっくつしていた感情を吐き出した今なら、それでもかまわないと思う。


 今まで役立たずと言われ続けてきたトリンティアが、こんな綺麗な狼の血肉になれるのなら、少しは誰かの役に立てるということだ。


 ひっくぐっすとしゃっくりを上げながら、覆いかぶさったままのウォルフレッドを見上げる。


 眉を寄せ、困り果てた表情で見下ろすウォルフレッドの碧い瞳と視線が合う。

 と、ふい、と目線を逸らされた。


「……悪かった」


 視線を合わせぬまま、ウォルフレッドが低い声で告げる。


 予想だにしなかった言葉に、驚きのあまり涙が止まる。またたきした拍子に、最後の涙がまつげから頬へとすべり落ちた。


 ウォルフレッドが袖口でトリンティアの頬をぬぐう。思いがけなく優しい手つきと絹の柔らかさに、トリンティアはようやく我に返った。


「も、申し訳ございませんっ」


 身体ごと横を向き、自分の夜着の袖で乱暴に頬をぬぐう。すぐに袖口がぐっしょりと濡れた。大泣きしたせいで、頬だけでなく、耳や髪まで濡れている。


 申し訳なさと恥ずかしさで、ウォルフレッドを見られない。


 いくら恐ろしかったとはいえ、小さな子どもみたいに大泣きしてしまうなんて。

 しかも、『冷酷皇帝』の前でとは、なんと愚かな行為だろう。


 先ほどの「悪かった」は、きっと混乱のあまり、聞き違いをしてしまったに違いない。


 皇帝ともあろう御方が、トリンティアなどに謝るなんて、天地がひっくり返ってもありえない。


 いったい、何と聞き間違えてしまったのだろう。

 「黙れ」だろうか。「鬱陶しい」だろうか。「うるさい。首を斬られたいのか?」だったかもしれない。


「も、申し訳あり――」


 とにかく謝らなければと口を開くと同時に、トリンティアの背中側に身を横たえたウォルフレッドが、不意に痩せた身体を抱き寄せる。こつん、と後頭部に額が押しつけられた。


「加減を誤った。――許せ」


 困ったような、低い声。


「お、お許しくださいとお願いしなければならないのは、私のほうでは……っ!?」

 びくびくしながら答えると、背後から、ふ、と苦笑する気配がした。


「では、お互い許すということで問題ないな」


 ウォルフレッドがそういうのなら、トリンティアに異論はない。


「は、はい……」


 頷くと、ほっ、と吐き出した息が、乱れてあらわになったうなじにかかった。あたたかな呼気が、トリンティアの強張りをわずかにほどく。


「『乙女の涙』が切れてから……。ずっと苦痛にさいなまれてきたのだ。痛みに呻くことなく深く眠れることが、どれほどの癒しか……」


 胸に迫るような低い声。


 痛みで眠れないつらさなら、トリンティアも身に覚えがある。


 へまをして折檻せっかんを受けた夜は、翌朝も早いのに眠れなくてつらかった。痛みを忘れられる深い眠りがこないかと、いつも祈るような気持ちでぎゅっと身体を丸めていた。


「しばらくは、お前を放すことはできん。早く慣れろ」


「な、慣れろとおっしゃられましても……っ」

 今でも心臓が飛び出しそうなのに、どうやったら慣れるというのだろう。


「必要ならば、少しくらいの譲歩はしてやる」


「で、では、お放しいただけますか……?」


 一縷いちるの希望にすがって願うと、逆に、ぎゅっと引き寄せられた。ぱくり、と心臓が跳ねる。


「少し、と言っただろう? 却下だ」

「あ、あのっ! では、せめて腕を緩めてくださいっ」


 ぴったりくっつくと、布地越しでもウォルフレッドの引き締まった身体つきがわかって、今すぐ逃げ出したい気持ちになる。

 ウォルフレッドの端正な面輪や、射抜くように強いまなざしをたたえた瞳が見えないだけ、正面より多少はましだが。


 懇願に、渋々といった様子でウォルフレッドが腕を緩める。トリンティアは、ほっと息を吐き出した。


「これは、早く慣れる方策、を……」


 ウォルフレッドの声が不明瞭に消えてゆく。次いで聞こえてきたのは、深い寝息だ。寝つきが早いのは、唯一の救いかもしれない。


 泣いたせいでまぶたが重い。背中から伝わるあたたかさが、緊張をゆるゆるとかしてゆく。


 トリンティアは目を閉じ、訪れる優しい眠りに身をゆだねた。

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