11 一夜では、まったく足りぬ


 昨日と同じように侍女達の手を借りて湯浴みした後、トリンティアが着せられたのは、羊毛を厚く織った上質な生地でできた夜着だった。夜着なので、ゆったりしていて首回りが広いものの、どう頑張っても身体の線など見えない分厚さでほっとする。


 だが、安堵するわけにはいかない。湯浴みさせられ、夜着を着せられたということは。


 この後に待つものを考えるだけで、心臓がきゅぅっ、と縮んで顔が火照ほてってくる。


「ついてきなさい」


 昨夜と同じく、セレウスが感情のうかがえない声で、冷ややかにトリンティアを促す。乱れのない足取りで進む様子は、声をかけることさえはばかられる雰囲気をたたえていた。


「よいですか。陛下は今朝、あのようにおっしゃられましたが、もし、万が一、まかり間違って気まぐれを起こされた時には、もちろんわかっていますね?」


 セレウスがようやく口を開いたのは、皇帝の私室まで来た時だった。


「は、はい」


 締め上げられたかのように痛む胸の前で両手を握りしめ、トリンティアは震える声で頷く。トリンティアに拒否権などないことは、最初から明白だ。


 トリンティアを振り返ったセレウスが、はぁっ、と深く嘆息した。


「本当に、もう少し……」


 呟く声は苦みにあふれている。が、トリンティアには「申し訳ございません」と謝ることしかできない。


「よいですか。陛下の、ひいては銀狼国の安寧はあなたにかかっているといっても過言ではないのですから。しっかり務めなさい」


 トリンティアの口をふさぐかのように、ぴしゃりと釘を刺される。


 そんなことを言われても、トリンティアは一介の侍女に過ぎないというのに。


 押し潰されそうな重圧に、口にしようとしていた嘆願が喉の奥へと逃げていく。セレウス相手では、トリンティアの願いなど、あっさりと却下されるだけに違いない。


「陛下はまもなくいらっしゃいます」


 部屋の中へトリンティアを案内したセレウスが一方的に告げ、きびすを返す。


 トリンティアは昨日と同じように寝台のそばの床に平伏した。


 もし機嫌を損ねたらと思うと恐ろしくて仕方がないが、こうなったら、ウォルフレッドに直談判をするほかない。ウォルフレッドさえ頷けば、セレウスも否とは言わぬはずだ。


 待つほどもなく、扉が開く音がする。続いて近づいてくる足音にトリンティアはさらに深く頭を下げた。


 緊張のあまり、分厚い夜着を着ているというのに、身体がかたかたと震えだす。


「……今日も寒いのか?」


 目の前で立ち止まったウォルフレッドが問う。今日も夜着を脱がれてはたまらないと、トリンティアはあわててかぶりを振った。


「い、いえっ、違います! その……、ひゃっ!?」


 腕を掴まれたかと思うと、強引に引き起こされる。さっと身を屈めたウォルフレッドがトリンティアを抱き上げ、ひょいと寝台に置いた。


 ふかふかの寝台が優しくトリンティアを受け止めてくれる。慣れぬ柔らかさに身を起こすより早く。


 ウォルフレッドの膝を乗せたマットが深く沈む。


「お、お待ちくださいませっ」


 片手で肩を押され、あえなく仰向あおむけに倒されたトリンティアは、のしかかってくるウォルフレッドの胸板を必死で押し返した。


 狼のあぎとの前に身をさらしている心地がする。


 不敬だなんて言っていられない。このままでは、不敬罪で罰せられる前に心臓が壊れてしまう。


 トリンティアの必死の抵抗に、ウォルフレッドが渋々といった様子で動きを止める。


「何だ?」


 不機嫌極まりない声で問われ、びくりと肩が震える。


 蝋燭ろうそくかすかな明かりを反射してきらめく銀の髪は、磨かれた剣のようだ。恐怖にひりつく喉を飲み込んだ唾液で潤し、トリンティアは訴える。


「あ、あのっ、毎夜陛下と……。そ、その、同じ寝台で眠る必要があるのでしょうか? 昼間もずっとおそばにおりましたし、その……っ」


 午前中の謁見が終わり、昼食をとった後、執務室で書類仕事をするウォルフレッドのそばにもはべったのだ。


 どうすれば、執務の邪魔をせずに、トリンティアがそばにいられるかという、本人達にとっては真剣極まりない試行錯誤が行われ――。


「もう、いっそのこと、嬢ちゃんを膝の上に抱えて仕事をなさったらいーんじゃないっすか?」


 とゲルヴィスがふざけて言い出し、本当に横抱きにされた時には、思わず本気でゲルヴィスを恨んだ。


 ただでさえ負荷がかかり通しの心臓に、これ以上の負担をかけるのは、本当に許してほしい。


 結局、椅子に座るウォルフレッドの足元の床にトリンティアが座り、背中を足に預けることになったのだが……。


 あれほど緊張しながら座り続けた経験は、今まで一度もない。


 少しでも意識をらすため、ひたすら刺繍の続きをしていたが、集中して少しでも現実を忘れようとしていたせいか、自分でも信じられないほど進んだのは幸か不幸か。


 とにかく。

 何刻も一緒にいたのだから、もう十分ではなかろうか。


 トリンティアの訴えに、ウォルフレッドがあっさり頷く。


「もしかしたら、そのうち不要になるやもしれんな」


「で、でしたら……」

 横を向いて逃げ出そうとすると、肩を掴んで仰向けに戻された。


「よく聞け。「もしかしたらそのうち」と言っただろう。長く『花の乙女』が不在だったのだ。一夜くらいでは、まったく足りぬ」


「そんな……っ」

 トリンティアは愕然がくぜんとウォルフレッドを見上げる。


 真面目くさった顔つきのウォルフレッドは、嘘を言っているようには見えない。


 だが……。「そのうち」とは、いったいいつなのだろう? それまで、トリンティアの心臓はもつのだろうか? と。


「確かに、手早く済ませたいのはわたしも同じだ。お前を手籠めにする気はないが……。試してみるのも、ありかもしれんな」


 不意に、ウォルフレッドが唇を吊り上げる。


 牙をく狼のような獰猛どうもうな笑み。


 「え?」と問い返す間もなく、ウォルフレッドの引き締まった身体が覆いかぶさってくる。


 逃げる暇すらなかった。


 唇が、熱いものにふさがれる。


 息を飲んだ途端、柔らかく、湿ったものが唇を割って侵入してきた。

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