10 『花の乙女』の務めは、心臓に悪すぎる


 扉が開く音に、トリンティアは手にしていた針と布をあわてて目の前の小さなテーブルに置いて立ち上がった。


 謁見えっけんの間の真裏にある隠し部屋へ入ってきたのは、皇帝にふさわしい立派な衣装をまとったウォルフレッドだ。


 凛々りりしい姿は思わず見惚みほれてしまいそうなほどだが、トリンティアにはそんな余裕などない。


 テーブルから一歩離れたトリンティアの腕を、大股おおまたに歩み寄ったウォルフレッドが掴む。かと思うと。


 強く腕を引かれ、抱き寄せられる。ふわりとお仕着せの侍女服のスカートが揺れた。


 はぁ、と疲れたような吐息が、ウォルフレッドからこぼれ出る。


「痛みが消えるすべが見つかったのは喜ばしいが……。反動が問題だな」


 ウォルフレッドが低い声で呟くが、トリンティアは返す言葉を持たない。ただ、ウォルフレッドの腕の中で身を固くするだけだ。


 トリンティアを抱きしめたまま、ウォルフレッドが深い呼吸を繰り返す。数度、深呼吸したところで。


「陛下。そろそろよろしいですか?」

 謁見の間からセレウスの声が問うてくる。


「ああ、戻る」


 答えたウォルフレッドがあっさりと腕をほどく。振り返り、足早に戻っていくさまは、トリンティアの存在など忘れたかのようだ。


 ぱたり、と隠し部屋の扉が閉まり。


 トリンティアはへなへなと椅子にくずおれた。


 ばくばくなる心臓を、両手で服の上からぎゅっと押さえる。そうしなければ、暴れまわる心臓が身体から飛び出してしまいそうだ。緊張で、喉がからからに干上がっていた。


 心臓に悪い。悪すぎる。


 異性に抱きしめられるだけでも緊張するというのに、きらびやかな衣服を身にまとった皇帝が相手だなんて。うっかり、どこかひっかかって、絹の衣装をほつれさせたらと思うと、気が気でない。


 何だか、昨日、ウォルフレッドに会ってからずっと、めない夢を見ているような心地がする。


 ゆるゆると息を吐きながら、トリンティアはさほど広くない隠し部屋を見回した。


 こんな部屋が謁見の間の裏側にあるなんて、まったく知らなかった。トリンティアは謁見の間になんて入ったことがないが、奥の壁のタペストリーの後ろに扉が隠されており、部屋があるとはわからぬようになっているらしい。


 トリンティアが入った廊下のほうも、扉は壁の彫刻に巧みに隠されていて、部屋の存在を知っているものでなければ、扉があることさえ気づかないだろう。


 セレウスが手早く説明してくれたところによると、この隠し部屋は皇帝が謁見する際に、陰ながら警護する騎士達が控える場所らしい。


 そのわりには、なぜか部屋の中央に天蓋てんがい付きの立派な寝台が置かれているのかせないが。寝台が部屋のほぼ半分を占めているせいで、なおのこと狭く感じる。


 ふだんは使われていないらしく、空気は少し埃っぽい。


 ひとたび皇帝の身に何かあれば飛び出せるように壁が薄く造られているのか、何か仕掛けがあるのか、隠し部屋からは玉座に座るウォルフレッドの声がはっきりと聞こえる。が、トリンティアとしては、分厚い壁だったらよかったのにと願わずにはいられない。


 謁見者に冷ややかに応じるウォルフレッドの声が聞こえるたび、自分が責められているような気になって、びくびくと震えてしまう。


 今回入ってきた謁見者は、税の軽減を願ってきているらしい。切々と領の窮状を訴えているが、すげなく嘆願を退けるウォルフレッドの声には、一片の慈悲も感じられない。さらには、セレウスが淡々と理詰めで領主の言を論破していく。


 おそらく謁見の間は、真冬の吹雪よりも寒々しい場と化しているに違いない。


 いつの間にか、自分まで震えているのに気がついて、トリンティアはあわててかぶりを振った。


 恐ろしい話など、聞かないに越したことはない。本来なら、一介の侍女に過ぎぬトリンティアなど、聞く機会も権利もない話なのだから。


 意識を切り替え、テーブルの上に置きっぱなしの針と布を手に取る。


 これは、午前中ここで待機を命じられた際に、「働きもせず、ただ座っているわけにはまいりません!」と言ったトリンティアに、「ならば刺繍ししゅうでもしていろ」と、ウォルフレッドが用意してくれたものだ。

 他には何も指示がなかったので、とりあえず得意な花の刺繍をしている。


 気をまぎらわせられる物があって、本当によかった。


 ひとりひとりの謁見の時間はまちまちだが、ウォルフレッドは謁見が終わるたび隠し部屋に来ては、ほんのわずかな時間トリンティアを抱きしめ、すぐに戻ってゆく。その様子は川で泳ぐ者が息継ぎをするかのようだ。


 自分はいったいどうなってしまうのだろう。


 機械的に手を動かしながら、トリンティアは夕べ、ウォルフレッドに告げられたことを思い出す。


 ウォルフレッドは、トリンティアには『花の乙女』の資質があると言っていたが……。


(うそうそうそっ! 私が『花の乙女』だなんて、ありえない!)


 サディウム領でさんざん役立たずだとさげずまれていた自分が、娘達の憧れである『花の乙女』だなんて……。


 昔、まだトリンティアがサディウム伯爵の養女として大切に育てられていた幼い頃、一度だけ、伯爵家を訪問した『花の乙女』を見たことがある。


 金糸銀糸で刺繍ししゅうがほどこされた古式ゆかしいゆったりとした純白のドレスを纏ったその人は、天上の女神が降り立ったかと思うほど、美しい人だった。


 いま思い返すと、年齢は三十歳を過ぎていたかと思うが、りんと背を伸ばし、気品にあふれた姿は、幼いトリンティアに「お姫様がいる!」と強烈な印象を植えつけた。


 あの時、『花の乙女』と何か言葉を交わした気がするのだが……。


 緊張に固まっていたせいか、美しい姿に見惚みほれていたせいか、どんな会話を交わしたのか、まったく覚えていない。


 ただ、優しく頭を撫でてくれた手の感触だけは、鮮明に覚えている。もし、母親というものがいたらこんな感じなのだろうかと、何度も思い出したものだ。


 トリンティアなどが、そんな彼女と同じ、『花の乙女』だなんて。


 やっぱり、何かの間違いだとしか思えない。

 それに、トリンティアが『花の乙女』だとしたら……。


 夕べ、上半身裸のウォルフレッドに抱き寄せられたのを思い出した途端、手元が狂って、指先にぶすりと針を突き刺した。


「っ!」


 思わず飛び出しそうになった声を、かろうじて抑え込む。


 謁見の間の声がよく聞こえるということは、隠し部屋の声も筒抜けということだ。決して声を上げるわけにはいかない。


 が、痛いものは痛い。


 怪我をした指先をもう一方の手で握りしめ、背中を丸めて痛みをこらえていると、不意に、謁見の間に通じる扉が開いた。


 入ってきたのはもちろんウォルフレッドだ。いつの間にか、謁見が終わっていたらしい。


 トリンティアは慌てて立ち上がった。大股にこちらへ向かってくるウォルフレッドの顔つきはどう贔屓目ひいきめに見ても不機嫌そうだ。


 もしかして、抑えたつもりの声が聞こえてしまっていたのだろうか。


 トリンティアが謝罪しようと膝をつくより早く。


「背中を丸めていたが、どうした?」

 前に立ったウォルフレッドが腕を掴んで引き寄せようとする。


「お、お待ちくださいっ」


 トリンティアは泡を食って押し留めながら、ぎゅっと左手を握り込んだ。


「そ、その、うっかり針で指を刺してしまったのです。もし、血が出ていたら……っ」


 皇帝の衣装に一滴でも汚れをつけたら、どんな罰が下されるか。


 抵抗したが、無駄だった。ウォルフレッドの大きな手のひらが腰に回り、問答無用で引き寄せられる。同時に、もう片方の手で、握り込んでいた左手をこじ開けられた。


「にじんでいるだけだ。汚れるほどの血は出ておらん」


 指先に視線を落としたウォルフレッドが、そっけなく呟く。かと思うと。


「ひゃあっ!?」


 指先をぱくりとウォルフレッドにくわえられ、トリンティアは今度こそ悲鳴を上げた。


 トリンティアのすっとんきょうな声に驚いたのか、ウォルフレッドがわずかに目を見開く。


 一瞬で、蒸発するのではないかと思うほど、頬が熱くなる。

 ウォルフレッドの口の中の熱が、トリンティアにまで移ったかのようだ。指先がけるのではないかと心配になる。


「ひっ!」


 あたたかくなめらかな舌にぺろりとめられ、背筋が震えた。


「これで問題なかろう」


 指を引き抜いたウォルフレッドがあっさり告げ、トリンティアをさらに強く抱き寄せる。

 もし腕の中にいなければ、膝から崩れ落ちていただろう。


「陛下」


 扉の向こうから聞こえるセレウスの冷徹な声が、トリンティアには天の助けのように聞こえた。


かし過ぎだろう、あいつは」


 鬱陶うっとうしそうに呟いたウォルフレッドが腕をほどき、さっと身を翻す。


 だが、トリンティアは去り行く背を見送る余裕などなかった。


 へなへなと床にへたりこむ。気を失っていないのが不思議なくらいだ。心臓が耳元でばくばくと騒ぎ立ててうるさいほどだ。


 夕べは、皇帝を押し倒した不敬罪で死刑になるのではないかと怯えていた。けれど、今は。


(不敬罪で処刑されるより先に、恥ずかしさで心臓が壊れるほうが先かもしれない……)

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