9 お前は皿の上に骨しかなければ、骨をしゃぶるのか?


「ん……」


 窓から差し込んだ朝日がトリンティアのまぶたをでる。


 起きて、支度をしなければ。遅れては叱られてしまう。


 だが、なぜだろう。ひどく身体が重くて、動かせない。

 王城の侍女勤めは、こき使われていた故郷と違って、力仕事はほとんどないというのに……。


 目をつむったまま、寝返りを打とうとしたが、やはり身体は動かない。そこでようやく、トリンティアは何やらおかしいことに気がついた。


 毎夜、枕の下に入れて眠っている匂い袋の香りがしない。代わりに、華やかで甘い高貴な香りが鼻をくすぐる。


 むぅ、と不明瞭に呟きながら、重いまぶたを開け。


「っ!?」

 眼前の光景に息を飲む。


 思わず見惚みほれずにはいられない端正な面輪が、目の前にあった。


 飛び出しかけた悲鳴を飲み込んだ拍子に、己が置かれた状況を思い出す。


 そうだ。夕べ、『冷酷皇帝』と言われるウォルフレッドに、お前は『花の乙女』だと言われ、抱きしめられて……。


 目を閉じて端正な顔を見ないようにすれば、喉から飛び出しそうなほど暴れまわる心臓が少しはましになるのかと、目をつむってじっと身を縮めていたのだが、いつの間にか、寝入ってしまったらしい。我ながら、意外と図太いものだと感心する。


 ウォルフレッドはまだ夢の中にいるらしい。穏やかな寝息がトリンティアの頬を撫でてくすぐったい。


 起きている間は『冷酷皇帝』の名にふさわしく、眼光が鋭く威圧感に満ちているが、眠っている今は、心胆を寒からしめるようなすごみは霧散している。


 とはいえ、異性の、しかも皇帝陛下の顔が目の前にあるというのは、心臓に悪いことこの上ない。


 トリンティアはなんとかウォルフレッドの腕の中から抜け出せないかと身動みじろぎした。だが、眠りに落ちる前と同じく、まったく緩む様子がない。寝返りを打てなかったのはこのせいかと納得する。


 というか、ウォルフレッドは本当にトリンティアを一晩中、抱きしめていたのだろか。


 そう考えると、恥ずかしさで、かぁっと頬が熱くなる。


 サディウム家で下女をしていた時は、寒い冬場などは下女達で集まって、身を寄せ合うようにして眠っていたが……。同性と異性ではやはり勝手が違う。

 それに、せていた者が多かったとはいえ、下女達の身体はこんなに固くなかったし、香のよい香りもしなかった。


 風呂に入れることも数日に一度で……。だから、トリンティアが香りのよい草や花を集めて作る匂い袋は、いつも下女達に喜ばれていた。同室の同僚達には、みすぼらしいと馬鹿にされたが。


 そうだ。侍女であるトリンティアが、このまま寝台でゆっくりしていていいわけがない。


 陽射しの明るさから察するに、夜明けからさほど経っていないようだが、いつもなら起きて身支度を整えねばならない頃だ。とはいえ、昨夜、湯浴みの時に脱がされたお仕着せがどこにあるかすらわからないのだが。


 いつまでも寝台でぐずぐずしていたら、叱責されるだろうか。

 だが、放してもらうためにウォルフレッドを起こしてよいのかどうか、判断がつかない。


 困って視線を彷徨さまよわせていたトリンティアは、気づく。


 夕べは薄暗くてわからなかったが、朝の明るい光の中で見るウォルフレッドの身体には、大小さまざまの数えきれないほどの傷跡がついていた。


 いくさの中でついた傷なのだろうか。どれもすでに治りきった傷で、うっすらと白い跡が残るだけだが……。数が尋常ではない。


「戦では常に先陣に立ち、自ら突撃して敵の大将をほふっていた」


 冷酷皇帝についての噂のひとつが、脳裏によみがえる。人によっては、恐怖と嫌悪に眉をひそめる者もいるだろう。


 だが、トリンティアの心に浮かび上がったのは。


(この方は、ご自身の手で皇位を勝ち取られたんだ……)


 純粋な驚愕と尊敬の念だった。


 こんな貴族は、初めてだ。サディウム家の人々を筆頭としたトリンティアが知る貴族達は、連綿と受け継ぐ貴族の血と権力を当然のものと誇り、毎日、いかに安楽で贅沢ぜいたくに暮らすかに固執していて……。


 こんな豪奢ごうしゃな王城に暮らす皇帝は、その最たるものだろうと思っていたのに。


(痛んだりは、しないのかな……?)


 サディウム領にいた頃、トリンティアを可愛がってくれたうまや番の老爺ろうやは、雨の日や冬の間は、昔、戦に連れて行かれた時に負った傷が痛むのだと言っていた。


 痛みに苦しまねばならぬのが、どれほどつらいかは、トリンティアにもよくわかる。


 ウォルフレッドの左肩から胸元にかけては、ひときわ大きな傷跡がある。少し引きつれた白い傷跡に、トリンティアは無意識に手を伸ばした。


 ふれた肌はあたたかく、手のひらにとくとくと鼓動が伝わってくる。と。


「陛下? まだお休みでいらっしゃいますか?」


 扉の向こうから、ノックとセレウスの声が聞こえた。途端。


「ひゃっ!?」


 突然、覚醒したウォルフレッドが、目にもとまらぬ速さで身を起こし、枕元に置かれていた剣を取る。放り出されたトリンティアは、思わず悲鳴を上げた。


 険しい顔で扉とトリンティアに素早く視線を巡らせたウォルフレッドが、状況を理解したのか、大きく息をつき、剣の柄から手を放す。


「思いがけなく寝過ごしたようだ」


 扉の向こうへ告げたウォルフレッドの声に、「失礼いたします」とセレウスとゲルヴィスが室内に入ってくる。が、寝台に平伏し、震えるトリンティアは、二人を見る余裕などなかった。


 ようやく腕の中から解放された喜びより、動けば問答無用で斬られそうな恐怖が心を占めている。


「陛下がが昇り始めても起きてらっしゃらないなんて、珍しいっすね」


 ゲルヴィスの意外そうな声に、ウォルフレッドが応じる。


「痛みなく眠れるのがこれほど安らげるとはな。思わず、前後不覚に寝入ってしまった。この娘は「当たり」らしい」


 三人の視線が集中するのを感じるが、平伏するトリンティアは身を縮めることしかできない。


「……が」


 ウォルフレッドの声が不機嫌そうに低くなり、トリンティアはぎゅっと目をつむる。


 いったい、何を言われるのだろうか。もしかして、寝ている間に何か粗相そそうをしてしまったのかもしれない。


「セレウス。あまりわたしを見くびるな。いくら何でも、食えるところもない鶏がらに手を出すほど、飢えてはおらぬ。薄物はやめろ。骨が当たって痛くてかなわん。夜着は厚手のものにしろ」


「あれ? 手を出されてないんすか? せっかくの据え膳なのに」

「お前は皿の上に骨しかなければ、骨をしゃぶるのか? 御免だな、わたしは」


 はんっ、とウォルフレッドが鼻を鳴らす。


「おい、鶏がら」


 言われなくとも、自分のことだと瞬時にわかる。


「とりあえず、お前は肉をつけろ」

「は、はいっ」


 布団に埋まりそうなほど額をこすりつけながら、トリンティアは疑問を口に出せないでいた。


 お肉なんて、どうやったらつけられるのだろうか、と。

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