8 『花の乙女』が何のために皇帝のそばに侍ると思う?
「花の……、乙女?」
トリンティアはウォルフレッドの言葉をぼんやりとおうむ返しに呟いた。昼間にもウォルフレッドが言っていたような気がするが……。
不安と緊張のあまり、ろくに耳に入っていなかった。
トリンティアの呟きに、ウォルフレッドが碧い目を
「まさか、知らぬのか?」
「い、いえっ! 知っております!」
あわててかぶりを振ろうとしたが、腕に阻まれて動かせない。
赤子を除けば、『花の乙女』を知らぬ者など、銀狼国には一人もいないだろう。
銀狼の化身と言われる皇帝に仕え、華やかに咲く美しい巫女達。
建国神話にも
トリンティアでさえ、例外ではない。けれど。
「わ、私が『花の乙女』だなんて……っ! そんなこと、ありえませんっ!」
「自分の出自もわからぬのに、なぜ、そう言える? それとも、何かお前の出自がわかるものでもあるのか?」
身を離したウォルフレッドに、射抜くような視線を向けられ、トリンティアは身を強張らせてふるふると首を振る。
「いいえ、ありませんっ。で、ですが、私なんかが『花の乙女』であるはずがありません! 『花の乙女』というのは、もっとこう、清らかで美しくて……っ! 絶対に、私などではありませんっ!」
「だが」
ウォルフレッドの腕が、宝物にふれるかのようにトリンティアの
頬にふれるあたたかくなめらかな素肌と、甘く迫る
「お前が、わたしの痛みを癒すのは確かだ」
「え……?」
わけがわからずきょとんと呟くと、ウォルフレッドが薄く笑った。どこか、苦みを帯びた笑みで。
「『花の乙女』が何のために皇帝や皇族のそばに
初めて聞く話に息を詰めて固まっているトリンティアの首筋に、ウォルフレッドが顔をうずめる。
広い
「どうやら、お前には『花の乙女』の資質があるらしい。……お前にふれていると、絶え間なく響いていた苦痛が消える……」
ほう、と深く吐息するさまは、熱にうなされる重病人が、ひとくちの清水をようやく口に含んだかのような安堵に満ちていて。
トリンティアの胸まで、切なく
「あ、あの……。ずっと抱きしめていないといけないのでしょうか……?」
どうやら処刑されるわけではないと知ってほっとするが、だからといってこうして抱きしめられていたら、早晩、鼓動が速くなりすぎて壊れてしまいそうな気がする。
「ああ。見知らぬ者を寝台に招き入れるなど、確かに、不用心この上ないな……。だが」
不意にウォルフレッドが
「仮にお前が敵から遣わされた刺客だとしても、お前の細い首くらい、片手でもたやすくへし折れる」
「っ!」
一瞬で背中が泡立ち、冷や汗がにじむ。
『冷酷皇帝』というあだ名が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「わ、私は決して刺客などでは……っ」
恐怖にひりつく喉からかすれた声を絞り出すと、ウォルフレッドが小さく息を吐いた。だが、威圧感はまったく減じない。
「ああ、そうであることを願うぞ。……せっかく手に入れた『花の乙女』を殺すのは惜しい」
恐怖に
自分がいまいるのは、狼の
狼が無慈悲に獲物の喉笛を
トリンティアにできることは、狼の機嫌を
セレウスの助言は、これを見越していたのかもしれない。
「しかし……。もう少し肉をつけろ。骨が痛くてかなわん」
「も、申し訳ございません……」
ウォルフレッドが
これでも、自分では、王城へ来てからそこそこ肉がついたと喜んでいたのだが。
サディウム領では、領主の館で働いていたが、養女といっても他の下女達と変わりない。むしろそれよりも
失敗したり、伯爵の気に
王城に来て一番嬉しいことはと問われたら、誰にも殴られたり蹴られたりしないことと、毎日、ちゃんと三食を食べられることだと即答できる。
トリンティアを義理の妹として大切にしてくれたのは、エリティーゼだけだ。
と、不意にウォルフレッドが首筋にうずめた鼻を、すんと鳴らす。
「ああ……。薔薇の香油か。『花の乙女』にふさわしい。イルダはよい仕事をするな……」
あたたかな吐息が肌をくすぐり、恥ずかしさに思考が
「あ、あの……っ」
不敬と叱られようが、これ以上は耐えられない。ぐいぐいとウォルフレッドを押し返そうとして。
洩れる呼気の気配が変わったのに気づく。
深く穏やかなこれは……。
「へ、陛下……?」
小声で呼びかけながら、首をひねってウォルフレッドを見ようとする。ひねった瞬間、すぐ目の前に
目を閉じてすこやかな寝息を立てる表情は、『冷酷皇帝』だと恐れられている青年のものだとは信じられないほど安らかだ。
まさか、こんなにあっさり寝入るとは予想外だったが、とにかく助かった。
トリンティアは腕の中から抜けだそうともぞもぞ動く。起こさないよう気をつけつつ、ぎゅっと身体に回された腕をほどこうとするが。
押しても引いても、まったく全然、動かない。
遠慮しているせいかと、手加減せずに押すが、やはり駄目だ。細身だが筋肉質な腕は丸太のように固く、緩む気配がまったくない。
(どうしよう……。逃げられない……)
絶望のあまり、途方に暮れる。
異性の、しかも雲の上の身分の青年の腕の中で一晩を過ごさなければならないなんて、いろいろな意味で心臓に悪すぎる。
すぐそばの端正な面輪は目をつむれば見えないが、華やかで甘い
トリンティアは固く目を閉じ、一刻も早く時が過ぎるのをひたすら願い続けた。
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